JR伯備線の備中高梁駅に初めて降りたのは2月の寒い風が吹く日だった。山の上に築かれた松山城の城下町として知られている町だが、私には漢字は違うが同じ 「たかはし」 なのでどんな町か一度行ってみたいとかねてから思っていた。しかし予備知識がなにもなかったので駅前の観光案内所で町のようすを聞いていたら、「俳優の高橋英樹さんも同じことを言って前に訪ねてきましたよ」 と言うので笑ってしまった。こんな寒い日に観光で来る人はほとんどいないようだ。倉敷で用事のある私に許された時間は約2時間、高い山の上にあるお城は次の機会にして街を歩くことにした。

 建ってから100年以上も経つ小学校を利用した郷土資料館、同じく明治時代の日本で2番目に古い教会堂を見学してから坂道を少し登ると頼久寺に着いた。臨済宗の同寺の草創は不明だが足利尊氏が再興して備中の安国寺としたが戦乱で荒廃した。戦国時代に松山城の城主上野頼久の庇護によって伽藍が整えられたので後に寺号を安国頼久寺としたという。

 境内を囲む白壁の塀が印象的だが、これも歴史を感じる石段を登って境内に入った。こんな寒い日に訪ねてくる人はいないのだろう。受付をすますと寺の人はすぐにいなくなってしまったので本堂の裏の書院に腰をおろして庭をゆっくりと眺めることにした。頭の上からは説明が静かに流れてくる。
 
 
 
  そこには遠くの愛宕山を借景にした枯山水の庭が冬の陽に照らされて静かに広がっていた。それはとても気持の落着くやさしい空間だ。大小さまざまな刈込みとさらにその外側にある樹木とが庭と一体となっているからだろう。龍安寺石庭のように視界を遮る土塀がなく、ほとんど石と砂のみといった厳しさや緊張を感じることがない。

 白い砂の海に浮ぶ鶴島は石組とサツキの刈込みで中島を示し、その奥には刈込みの前に亀が首をもたげたかのような亀島がある。左手には大きなサツキの刈込みがまるで大海の波頭のような迫力を持って白砂の海に迫っている。その海はきれいな波模様をつけて広々と目の前に広がる。
 
 
 

 

 ここ高梁でこのような庭に出会うとは思っていなかったので、それだけ驚きも大き

かった。しかもたった一人でこの眺めを楽しめるとは。寒い中をはるばるとやってきた甲斐があったといえよう。落葉一つなくきれいに掃き目のついた白砂、みごとに刈られて輪郭をはっきり示している大小の刈込みを見ていると、数百年維持されてきたこの庭をさらに後世に伝えようとする頼久寺の方々の努力に頭がさがる思いだ。これも禅宗の修行の一つなのだろうか。


 
 

 庭園史の研究と造園で知られる重森三玲(1896~1975)は、その著書 『枯山水』(河原書店、1965年)に、「日本の庭は、国土が四周海に囲まれた美しい大自然の環境に恵まれている関係から、海景の美を再現することに主力が注がれて来たのであって、そのために海の景を表現する意味から、池庭を作り、島を浮かべることが基本とされたのであった。」 「池庭を作りたくとも、水の便を得ない場所では池庭は不可能である。だが庭園の発生における本来の意味が山水としての水に重点があったのであるから、水を用いない庭にも、何らかの意味で水の表現を希望したのであった。その不可能を可能とすることが、枯山水で創意され、水を象徴的に、又は抽象的に扱うことに努力が注がれたのであった。」 と書いている。


 そして室町時代の東山時代(15世紀後半)以降を本格的な枯山水の造られた時期として、「池庭とは全く異質的であり、別な立場にあって作庭された劃時代的なものであり、内容も構成も特色あるものとして出現したのである。」 とも述べている。
 
 では、この頼久寺の庭はどのような経緯で成立したのだろうか。
 有名な関が原の戦の後ここ備中松山城を預かった武将は小堀正次だったが、やがて亡くなるとその子政一が遺領を継いだ。その頃は松山城が荒廃していたのでここ頼久寺を仮の政庁として領国の支配をしたという。この小堀政一(1579~1647)が後の小堀遠州で、茶道・建築・造園にも優れた才能を発揮したことが知られている。遠州は松山城を再建するとともにこの頼久寺の庭も造ったと伝えているが確証はないようである。しかし、築庭の様式には桃山・江戸初期のものが見られるそうなので小堀遠州作庭の可能性はありそうに思える。 
 

 
 重森三玲の 『枯山水』 では、頼久寺の庭は桃山時代の庭の一つに数えられている(小堀遠州の時代)。この時代の庭は53あるがそのうち枯山水が27あり、「枯山水が、室町期の発生時代においては、禅宗特有の庭園であったのが、桃山期では、各宗寺院の庭園や、城郭の庭園として発達したことがわかり、しかも、これらの各宗庭園も共に、当代武家の背景によってのみ完成されていることをしるべきである。」 と述べている。

 そして大刈込みは桃山時代の枯山水で全盛を極めたとして、「中でも頼久寺庭園の大刈込のごときは、各時代の庭園における全国庭園中第一位といい得るほどの立派なものである。頼久寺庭園の大刈込にあっては、庭園背後の竹林の麓に椿の一色による一直線状の大刈込を作り、その下部には、皐月や、躑躅の類による大刈込を作り、更に庭中の鶴島等を囲む大刈込が作られている。」 「頼久寺庭園の大刈込のごときは唯一の保存といわねばならない。」 と高く評価している。

 また、東山時代以降の 「新しく創作された枯山水は、従来の庭園と比較して、奇想天外な作品として誕生し、創意にあふれた永遠のモダンが内在的に発展したのであった。銀閣寺庭園の砂壇や、竜安寺庭園や、大仙院庭園の石組、さては頼久寺庭園の大刈込等に見られるごとく、創作力に満ちた、時には象徴的、時には抽象的な超自然主義に通じる意欲的な作品が、次から次へと発展して行ったのであった。」 とも書いている。
 
 私が 『枯山水』 を読んだのは帰宅した後だが、何も知らずに訪ねた頼久寺の庭園から受けた感動がこのようなところに由来するのかとあらためて感じいったのだった。
 
 頼久寺の庭に心を満たされた後は、城山の麓に位置する武家屋敷のいくつかとよく雰囲気を伝える街並、さらに低いところに作られた商家の街並を見て、私のような旅行者にも丁寧に挨拶する高校生に感心し、冷え切ったからだをおいしい蕎麦で温めた。

   短い時間だったが収穫の多い備中高梁への真冬の小さな旅だった。