もう一年前のことになるがNHKテレビの「日曜美術館」が陶芸の川喜田半泥子を取上げた。銀行の頭取までやった人だが趣味で陶芸に打込んで生涯の作品数は3万点とも5万点ともいわれている。桃山時代の器を深く研究してそれを生かした独自の器は高く評価されているが、彼は趣味に徹して生涯に一つも売らなかったという。
 
放送では、「芸術とは本来遊びである。権勢に媚びるための手段でも生活の糧を得るための手段でもあるべきではない」といった半泥子の言葉を紹介していた。何事にも束縛されない自由な境地で美の創造に打込むのは芸術家の究極の理想だろうがそう簡単には実現できるものではない。前近代にあってはともかく、近現代にあっては極めて稀なことであろう。だからこそ川喜田半泥子の存在が際立つのだろうが。 

 

この放送を見ながら似たようなことを書いている人がいたなと私は思い出していた。古書店で手に入れた作家立原正秋の『日本の庭』1984年、新潮文庫)である。ずいぶん古い本なので新刊で買うのは難しいかも知れないが、著者の庭についての観察や思いが数々の庭を取上げながら語られているので興味深く読んだ。 

 

「作庭は最初は荒び(すさび)であった、と私は考えている。慰み、遊び、と解釈してもらってもよい。古い作庭書を読むと荒びを感じさせる個所がかなりある。この荒びを美意識として昇華させ表象させたのが禅寺の庭である。ヨーロッパ人は美はつくるものであると考えてきた。東洋人は実生活から美をつくりだしてきた。」「龍安寺の庭が石と砂だけでどれほど抽象化されていても、石と砂がすでに自然そのものとしてとりいれられており、しかもそれが美に転換されているから、庭に関する思いが西洋と東洋ではまったくちがうわけである。石と砂はもとは山にあり川にあった。それは紛れもない石であり砂であった。それを別の方法に置き換えることによって別の世界が生じた。これはある意味では自我の機制に役立った。殊に禅僧の場合は自我の機制に重要な役割を果たしてきたのではないか、と私は考えている。これは高度な荒びである。」p.38-9 

 

もともと日本の庭園にあっては、木や草の緑と石・岩とともに水の流れや池は重要な構成要素であった。それが中世になると石や岩、砂礫をもって水の流れや池を表現する枯山水が造られるようになり、それはしばしば禅の思想をもって語られることが多かった。しかし著者立原正秋はそれを俗なものとしてきらった。

 

例えば久松真一の『禅と美術』1976年復刻)を取上げて、「禅院の、書院の庭として非常に有名なのは龍安寺の石庭ですが、これはもう樹木一本無く、ただ古い土塀に取り囲まれた、而も、その土塀も何か「幽玄」さをもった、どこか枯れたというような感じのする、屋根のある土塀に取り囲まれた矩形の庭ですが、そういうものの禅的な面白さというものは、やはり禅のもつ七つの性格というものが、そこに、書院の庭として非常に本質的になっているという点だと思います。」といった部分をもう少し長く紹介して、「こんな土産品店向けの空論を見すごすことはできない」「庭をこんな風に深遠に解釈されてはたまらない」と手厳しく批判している。p.151-2

 

また、志賀直哉の「龍安寺の庭」1924年)という短い文章を紹介したうえで、「この人は直観の鋭い人だが、言っていることがあたらない場合がある。前後左右が見えない人のようである。」「龍安寺の庭を「簡素なだけそれだけ決して容易な仕事ではない」といっているが、あの脂っこい庭を簡素な庭と言いきったところにこの人の美意識の限界があった。」とこれまた手厳しいp.134

 

志賀直哉はこの文章でことさら禅との関係を述べているわけではなく、庭を相阿弥の作として「散文的である事を極端に嫌ふ心持から自然に到達した結果ではないかと思ふ。一樹一草も使はぬといふことは勿論其庭に一樹一草もない意味ではない。吾々は広々とした海に点在する島々を観、島々には鬱蒼たる森林の茂るのを観る。僅か五十余坪の地面に此大自然を煮つめる為めにはこれは実に、相阿弥にとって唯一の方法だったに違ひない。」と述べているp.132

 

このような志賀の鑑賞に違和感を持つよりも、「あの脂っこい庭」と感じる立原の鑑賞にこそ違和感を持つ人の方が多いのではないだろうか。しかし、立原正秋は庭石に刻まれた人の名に触れて作庭者を東山時代に活躍した河原者と考え、「龍安寺の庭は禅僧の荒びにすぎない。」「つまらない庭だ」と断定しているp.134,136 

 

「塀に囲まれた砂礫の庭の要所要所に石が打ってある。ここでは石は立てていない。室町期の作庭はすべて石は立てるのが常道であった。この打ってある石が、見る者に安堵感を齎してくれる。すこしばかりの苔は別として、一木一草もない砂礫に石を打ってそこに思いをとどめさせる。要するに限定されたなかでの安堵感、といったものがあり、すぐれた手法である。よくみるとこの庭は実に美しい。美しいが厳しくはない。そして抽象的だが象徴的ではない。もしこの庭が大仙院の庭のように象徴的であったのなら、私は脂っこいとは感じないだろう。」p.136-7 

 

ところで、京都をはじめ各地の庭で小堀遠州の名を聞く機会が多いが、彼は桃山・江戸初期の武人だが、作庭家・茶人としてよく知られている。立原も遠州作の庭をいくつも取上げているが、しかしその才能を認めつつも庭にしても茶にしても「現世化」したとし、その通俗化に極めて批判的であった。その一例として取上げられているのが京都南禅寺金地院の庭である。 

 

「枯山水としてこれだけ現世化し、これだけ首尾一貫し、これだけ華麗な庭は他にないだろう。この庭は遠州がつくった庭として疑いがないだけに、彼を目のあたりに視る気がしてくる。涸れた小石敷きの流れと大きな礼拝石、背後のさまざまなかたちの刈込は、すぐれた造型感覚を思わせる。いや、実にすぐれた造型である。しかし、よく出来ているが、俗である。花魁道中を思わせるような俗っぽさである。遠州好みの庭は殆どがそうだが、この庭にも空間がない。存在しうるものはすべて使いこなし、塗りつぶすだけ塗りつぶしてあるので空間がない。したがってここには事実しかない。装飾的で律動的である。」p.116 

 

そして龍安寺の庭について、「金地院と龍安寺の庭にかたちはことなるが同じ姿を見出しているわけである。龍安寺の庭は均衡がとれすぎているのである。金地院がそうである。現世的なのである。」と言っているp.136

 

では立原の心に触れた、すばらしいと感じた庭はどのような庭なのだろうか。その一例として取上げられているのが京都大徳寺本坊方丈の南庭である。私は残念ながらまだ見たことはないが、写真では砂礫の敷かれた長方形の広い庭の右手に広がりを持つ緑の苔がありその中にあまり大きくない石が二つ据えられ、左手には円錐形の大きな砂盛が二つ並んでいる。 

 

「ここの南庭は実に心にしみた。これだけ曠達な庭は京都の禅寺ではほかには見あたらないだろう。ここでは石が緩やかに点を打っている。だいたい禅寺の庭の石は鋭い点を打っている印象をあたえるもので、たとえば大仙院客殿の東庭の石、龍安寺の石庭の石などがそうだが、大徳寺本坊の南庭はまさにその逆である。臨済の、裏(うち)に向い、外に向い、逢着すれば便(すなわ)ち殺す、仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す、は自己格闘の果てに無相な自己を自覚すべき意を述べた言葉だが、庭を目前にしていると、そこを通過してきた人間を目の当りに視る思いがする。完璧な庭であるといってもよい。しかもすこぶる贅沢である。」p.39 

 

立原の心に触れる庭が見えてきたようだ。禅がいうところの(禅とは限らないが)「無」を表現した、あるいはそう感じさせてくれるような庭こそが、そのような美意識を表現した庭こそが最高のものと言いたいのだろう。 

 

しかし、と私は思う。立原にとって最高の庭をすべての人が同じようにそうだと感じなくてはいけないのだろうかと。そうは感じない人や、彼がよくないといった庭をよいと思う人は否定されなければならないのだろうかと。

 

イギリスの歴史家 E.H.カーは、歴史とは「過去と現在との間の尽きることを知らぬ対話」と言っているが(『歴史とは何か』1962年、岩波新書)、美術についても同じようなことが言えるのではないだろうか。「美術とは作品と作者との、作品と鑑賞者との尽きることのない対話である」と。作者は美の創造に、鑑賞者は美の発見への尽きることのない対話によって真の美に近づいていくのではないか。そこに求められるのは謙虚な姿勢だろう。

 

立原の『日本の庭』を読んで私が感じる不快感は、著者の姿勢が謙虚とは対極にあるからだと思う。「私は庭園史については素人である」p.151と自覚しながら他者の言説をどうして裁断できるのだろう。また、歯科医の不手際で口内炎になったために京都で思うように飲食を楽しめなかったからといって、すてきないくつかの庭に巡りあわなかったら「鎌倉に帰って歯医者をどなりつけるところだった」p.50と書いて憚らない神経。そこに感じられるのは謙虚とは程遠い有名作家の驕りとしか私には思えない。せっかく多くの文献に目を通し、庭を見て思索を巡らし書いた著書の品格を台無しにしている。私はかつては立原正秋の小説の愛読者だったが、ある時から読まなくなった。それは作品を読んで伝わってくる彼の人となりに嫌気がさしたからである。 

 

数年前の冬、岡山県高梁市の頼久寺を一人訪ねたことがあった。真冬の寺を訪ねる人は稀で、入口で案内を請うと後はただ一人庭と向かいあって静謐な時間を過した。広く敷き詰められた砂礫の向こうに鶴亀の石組が据えられ、ツツジの大刈込が波濤の如く周囲を巡り、借景の高い樹林と山の上には冬の青い空が広がっていた。この庭は小堀遠州の作と伝えている。立原の本では、大刈込は当初からのものではなく、「きわめて現世的な庭である」p.123と切捨てられている。しかし、冬の寒さの中でこの庭と一人対面して得た安らぎは私の忘れることの出来ない思い出である。