歴史・文学・美術などのエッセイと写真のブログです。
近くの市立図書館に数は少ないが映画のDVDがあるので、最近「竹山ひとり旅」を借りた。津軽三味線の名人と言われた高橋竹山の若い日の姿を伝える映画で、新藤兼人監督、林隆三・乙羽信子主演の随分古い作品だが、いろいろと思い出すことが多かった。DVDのケースには作品について次のように紹介している。「戦前、雪深い津軽の貧しい農家。病のため幼くして失明した定蔵は、三味線の師匠の家に修行に出され、やがて果てしない放浪の旅が始まる。夏の北海道から厳冬の下北、そして三陸へ。三味線をかき鳴らし、出会い、別れ、裏切られ、愛を知り、そしてまた旅は続く。その苦行の陰には常に母の姿があった。生きてゆくための芸に過ぎなかった津軽三味線を芸術の域に高めた高橋竹山。厳しい自然を背景に、その魂の軌跡を、ドラマとドキュメンタリーを融合したスタイルで描く映画詩。」******相変わらず気温の変動の激しい日々だが、道を歩くとモクセイ(木犀)の香りが強く漂う季節となった。だいぶ昔のことになるが、職場の同僚たちと北海道函館の旅を楽しんだ折、同僚Mと1988年3月には廃止になる青函連絡船に乗るのも最後ということで、函館発15時の連絡船に乗り青森に着いたのは18時55分、乗る予定の寝台急行列車「はくつる」は23時59分発なので時間はだいぶあった。そこで夜の青森の街を歩き回って見つけたのが津軽三味線と料理の店甚太古(じんたこ)で、とうとう開店から閉店までその店に腰を据えてしまった思い出がある。その時のようすと再訪した時のことは「青森の一夜」という文章で触れている。今では想像できないほど函館も青森も東京からは遠かった。同僚のMは旅が好きで、特に遠い不便なところに出かけていた。例えば小笠原諸島や与那国島、晩年は毎年一人でイギリスの田舎に出かけていた。そして食べることが大好きだった。おいしいもの、珍しいものをみつけると必ず「食べに行こう」と誘ってくれるのだった。そんな彼が肝臓がんで突然亡くなってからもうだいぶ経つ。元気ならば今も時々は何かおいしいもので酒を酌み交わしたろうと思うと、本当に寂しい。彼の亡くなった直後に、その急逝を悼んで詠んだ私の拙い歌5首。木犀の香り漂う青空に 吸い込まれしか君が命は旧友が四人集いて食事せる その三月後に逝きし君かなかにかくに命はかなくなりにけり やるべきことのまだ終らぬにテロ事件報じるニュース今日もあり 君が逝きしは癌自爆テロ「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」 と うたいし人らと楽しむか君歌の詠まれた状況はまったく異なるが、「ちる花もまた来む春はみもやせむ やがてわかれし人ぞ悲しき」という古歌を詠んだ人と同じような寂しさを今も味わっている。(注)「おい癌め…」は、文筆家・俳人江國滋(1934-97)の没後出版された俳句日記 写真はDVDのケースから借りた映画の一場面。
最近所用で久しぶりに名古屋に行ったが、駅の変りようには大変驚いた。デパートの高島屋が大きな店を構え、いくつもの円い高層ビルが立ち並び、その中にはよく知られた数多くの店が並んでいる。12・13階のレストラン街には銘酒 “ねのひ” の蔵元直営の店があった。まだ私が若かったころ、東京銀座8丁目の辺りにこの “ねのひ” 直営の居酒屋があり、近くに行った時によく寄った思い出があるので、昼間であったがこの店に入ってみた。店は厨盛田(DAIDOKO MORITA)といい、落着いた和食の店の雰囲気で、昼時のせいか食事の客が結構入っていた。夕方からは酒が目当ての客も増え、料理もそれに合うものが出されるのだろう。蔵元は知多半島にあり、江戸時代初期の1665年の創業だが、近海の新鮮な魚介類とともに今日に至るまで多くの人たちに愛されてきたという。蔵元らしい粕漬けの鯛を中心とした海のものの食事を注文し、懐しい “ねのひ” を少し飲むことにした。目の前に蔵元についての説明があったので酒を飲みながらを読んでみた。海運に恵まれた知多半島は、温暖な気候だが冬には伊吹おろしが吹いて酒造りに適した環境となり、芳醇旨口の酒が造られたと。そして11代蔵元の時に醸造法の改良をして灘・伏見の酒に負けない品質になったと書いてあった。ただ驚いたのは蔵元15代当主がSONY創業の盛田昭夫(1921-99)だったことだ。井深大らと東京通信工業株式会社を1946年に創立し、やがて世界のSONYに発展させたことはあまりにも有名だ。私もパソコン(注)・カメラ・ラジオなどを今も愛用している。旅をすると思わぬことに出会ったりするが、今回もその例と言えよう。そして銘酒の名 “ねのひ” が “子の日” で、十二支の始まりの子(ね)に由来する名称だと言うのもこの日に初めて知ったことだった。(注) SONYはパソコンから撤退したが、2014年に独立したVAIO株式会社に引継がれていると言える。
今日は関東大震災から101年になる。現在は迷走台風10号で日本中が大迷惑だが、今年の元日には能登半島で大地震が、つい先日は宮崎県で大きな地震が起きて南海トラフの大地震の前兆かと緊張した。いよいよ大地震が近づいてきたようで怖いですね。去年の記事をリブログします。
東京の法融寺(練馬区)に秋艸道人會津八一の墓があるというと、“なぜだろう?八一の菩提寺とお墓は新潟市にあるのに” と思う人がいるかもしれない。その辺の事情については、すでにこのブログでも “むさしのの” という文章と、歌碑巡礼 “法融寺” “同 続き” で書いているが、毎年11月に同寺で開かれる “會津八一を偲ぶ会” で、2014年に配られた資料に、同寺の住職が書いた “秋艸道人と法融寺” という文章があるので紹介したい。ある出来事が後世に伝えられるためには、やはり当時関係した人の書いたものが事実をより正確に伝えている可能性が高いと思うからである。正確に言えば、墓碑や歌碑の建立に関係したのは、文章を書いた住職那須公順さんの前の住職那須信吾さんだが、公順さんはこの寺に1962年に来た後2代目の住職になるまでに、初代住職からいろいろな事を聞いてきた様子がこの文章からもうかがえる。奈良や新潟で會津八一の歌や歌碑に親しんでいる人たちも、東京に来た折には法融寺を訪ねてみてはと思う。******昭和六十三年十一月二十三日、法融寺(東京・練馬)に於て、秋艸道人三十三回忌法要が勤修された。本堂参詣間及び下屋をも含めて、参列者七十有余名、ほぼ満堂の状況であった。昭和三十二年、かつて秋艸道人の謦咳(けいがい)に接した門下生を中心とする方々が、追慕の念のあまり、当寺に於て秋艸道人忌をお勤めして以来、年々休むことなく、その間、他界、病臥、老齢などによって、人は変っても参詣者数にさしたる変動もなく、連綿として今日まで続いて来た事は、偏(ひとえ)に道人への敬慕の念のあらわれと思われる。同じ年、新潟より分骨を迎え、当寺境内に墓碑を建立し、墓石には「秋艸道人」なる自筆の墨痕が鮮やかに刻まれている。そして、道人の歌碑が主として奈良方面に多いのに対し、関東にも建立したいという声が起り、昭和三十五年、道人の「村荘雑事」より、「むさしのの くさにとばしる むらさめの いやしくしくに くるるあきかな 秋艸道人」を採り、珍しく道人自ら画いた絵を添えた歌碑を建立することとなった。「願主 当寺前住職 那須信吾 建立者 上司海雲、安藤更生、奥田勝 設計者 杉本健吉 石工 喜多桝太郎」の諸氏の尽力によって、奈良生駒石を用いて、当寺境内に建立をみたものである。そして、道人と同じ境内に墓をと望む人が多く、安藤更生、料治熊太、実藤恵秀の各氏は既に故人として、当寺境内墓地に埋葬され、新庄嘉章氏も同家先祖の遺骨を納骨している。又、宮川寅雄氏は没後、未亡人をはじめ諸氏の熱望により、境内地の一角に歌碑建立の実現をみた。このような由来から、私としては秋艸道人忌が、今後も連綿として連続無窮にして休止する事なく勤められる事を願うと共に、反面フェスティバル化、ショウ化に危惧の念を抱いている。秋艸道人と法融寺との関わりは、那須信吾前住職が、奈良東大寺の上司海雲和上と学友であり、親交があったが、前住職が早稲田大学へ転校し、従来奈良で旧知の間であった、會津八一先生に、当時信願寺と号していた寺号を揮毫いただきたいと、上司師の紹介により、昭和十八年頃、落合の秋艸堂に道人をお訪ねしたのが最初であった。道人はすぐ承引して下さり、現在当寺書院に掲額されている、「信願道場」をいただいた。早速当時としては相応の金子を算段して御礼に伺ったところ、道人は固辞され、そのかわり、境内で作っている農作物を所望せられた。そこで前住職は数回にわたり、親戚の娘と共に夫々(それぞれ)篭一杯の野菜とその他を届けて、大変喜ばれたという事を伝え聞いている。しかし、道人との交流も、やがて戦争が苛烈となり、秋艸堂は罹災し、道人の新潟帰郷によって跡絶(とだ)えててしまい、道人は再び東京へ住居をもたれなかった。道人没後一年、新潟瑞光寺への納骨に当り、在京門下生、関西の人々によって、武蔵野の面影を偲び、道人ともゆかりのある当寺に自然石の墓石を建立し、秋艸道人忌がその後毎年勤められるようになった。昭和三十五年、歌碑建立に当っては、歌人吉野秀雄氏も当寺を訪れ、秋艸道人追慕の歌を数首詠まれた。それは現在「吉野秀雄歌集」に法融寺にて詠んだ事が明記されている。その折、揮毫された歌を軸装して、現在当寺什物となっているが、落款は持参しなかったので、この次来寺の節に持参するとの約束であったが、それも、今は実現をみないままに終ってしまった事は残念至極といわねばならない。なお、道人の三十三周忌を記念して、当寺総代万葉洞主人関谷正治氏が、没後三十三年會津八一展を銀座みゆき店で開催した事を申し添える。(『食の文学館』 第6号 1989 平成元年4月 株式会社エーシーシー発行 掲載 2014 平成26年11月 會津八一を偲ぶ会 配布資料 より) 法融寺 東京都練馬区関町東 1-4-16 西武新宿線上石神井駅下車
"ポツンと一軒家” というテレビの番組がある。山地の奥の緑の中の一軒家に住む人を訪ねる番組だが、こちらは都会のビルやマンションの並ぶ町なかにポツンとある一軒家。それも銀座2丁目という東京のど真ん中。切妻屋根の2階建ての商家。上の写真で分かるように梁の先端が前に飛び出し、その先端、外壁より外側に桁が乗っている。いわゆる出し桁造りで、軒の出が深くなる特色がある。関東大震災の後に防火対策としてすすめられたのが瓦葺き・土壁の伝統的な商家の造りと、外壁をトタンなどで覆ういわゆる看板建築で、写真の家はおそらく昭和の初めの建築だろう。昭和の戦争時代の戦災で焼野原になった東京だが、それでも焼けなかったところがまだら模様にあり、そこにはこのような建物がところどころに残っている。この家は1階の屋根に「酒蔵 秩父錦」と彫った立派な看板が乗っている。秩父錦は今も秩父にある銘酒だが、想像をたくましくするならば、この看板はいろんな酒を売る酒屋だった頃のものではないだろうか。造り酒屋やビール会社の立派な看板が酒屋や居酒屋に飾ってある例は珍しくない。今は写真のタヌキの左にある板に呑屋の品書きのような書込みがあるので、おそらく居酒屋だろうと思われる。店の名前が見当たらないのでよく分からない。不思議な店で、夜もう一度来てみると分かるかもしれない。いずれにしても昭和の初めから同じ商売をやっていたとは思われない。また左右にショウウインドウのある1階の造りも、当初のものとは思われないがどうだろうか。そして最大の不思議は、維持するだけで税金その他大変だろうに、ビルの谷間になぜこの1軒だけ頑張っているのだろうか?
毎年8月は多くの日本人にとって戦争について特に考える時だが、今年の8月はオリンピックと重なって、6日も、9日も、15日もやや影が薄くなったように感じたのは私だけだろうか。今年の8月15日は、1945 昭和20年から79年になる。人間の一生くらいの年月が経ってしまったことになる。そして1945年から79年遡ると1866年、なんと明治元年の2年前になる。明治維新から昭和の戦争の敗戦までと同じ年月がすでに経ったとはにわかには信じがたい思いだ。「戦後」という言葉で一括りにするには長すぎる年月だろう。しかし、戦場や戦災で亡くなった人々を追悼し、「戦争の悲惨」を決して忘れない、繰返さないという思いが多くの国民に共通していたのが、現在に至る戦後の長い年月の通奏低音であったと私は思っている。そして憲法の「戦争の放棄」がその意思表示だと。考えてみるに戦争には必ず相手国がある。昭和の戦争では中国と太平洋の国々が戦場となり、日本と相手国の軍人と市民が多数犠牲になった。被害と加害の両方をみなければ戦争の事実をみたことにならないだろう。1945年9月2日、ポツダム宣言受諾の調印式が行われて、日本は連合国に降伏した。その翌日3日を中国は抗日戦争勝利記念日と定め、ロシアは軍国主義日本に対する勝利と第2次世界大戦終結の日と定めているという。8月15日は日本の内向きの終戦(敗戦)の日といえそうだ。話は変わるが、8月14日に岸田首相が突然次の自民党総裁選には出ないと宣言して、自民党をはじめ政界の動きがあわただしくなった。そこで気づいたのだが、今の国会議員はほぼ全員が戦後生まれではないのかと。戦争の時代を知らない、経験していない人たちがこれからの日本を動かしていくのだと。これは政界に限ったことではないが、国民の生活に大きな影響を持つのは政治のありようだから。岸田内閣は専守防衛の強化に力を入れるとして防衛予算の大きな増額に踏切った。核兵器を持ち、必要なら戦争を辞さない超大国アメリカと「戦争をしない」小国日本との奇妙な同盟は、はたして日本の未来に平和と幸せをもたらしてくれるのか。経験したことのない猛暑の夏に、地球の未来も含めて改めて心配になる。(写真は庭に咲くキツネノカミソリとアサガオ)
東京銀座のミラボウ画廊で若い友人藤井哲子さんの展覧会が開かれた。昨年秋の近代美術協会展でミラボウ画廊企画賞をもらった方の二人展だった。藤井さんは音楽が専門で活躍していたが、やがて絵画も描くようになり、毎年近代美術協会展に出品して、これまでに何回も受賞している。今回はそのもっとも新しい賞というわけになる。画廊は歌舞伎座の裏という東京のど真ん中に位置しているが、スペースの関係か、あまり大きくない作品で展示が構成されていた。写真ではあるが、藤井さんの絵画の世界の一端を味わってもらえたらと思う。画廊主の紹介文には「その感性が画面の中に塗り込められ、鑑賞者を真実と幻想の世界に誘い込もうとする。そこには心地よい風があり音楽が奏でられる体感アートでもある。」と書かれていた。画廊の展覧会はもう終了しているが、今年の近代美術協会展は9月18日から26日まで上野の東京都美術館で開催される。出品作の大半が100号という大作で大変見ごたえのある展覧会なので、興味のある方はどうぞ。なお藤井さんは奈良市在住だが、奈良の歴史や文化を極めるために奈良検定(奈良まほろばソムリエ検定)にも挑戦し、今は合格者(ソムリエ)としても活躍している。見学会や講演会やテレビ出演や新聞記事の執筆など、音楽や絵画と融合した多彩な活動で今後もますます注目されていくことと思われる。 藤井哲子さんのブログ
會津八一の代表的歌集『鹿鳴集』は1940 昭和15年に出版されたが、その校正に尽したのは唯一の歌の弟子と言われる歌人吉野秀雄(1902-67)だった。吉野が後年書いた「会津八一の思ひ出 —上州小旅行の頃」という文章に、次のようなことが書いてある。1940 昭和15年6月、群馬県高崎市出身の吉野が師會津八一を案内して伊香保温泉に泊まった時に、八一自身が『鹿鳴集』の中から良いと考える歌に印をつけたら81首になったという(自分の名前と同じというのが面白い)。その翌日にはさらに精選して16首になった。このようなことを吉野が持参した出版されたばかりの『鹿鳴集』の見返しに八一自身が書いていると。「書入れ本見返しの三と四の面に、「六月一日、伊香保仁泉亭に来り、浴後闌に倚って此の書を閲す。稍々誦するに足るものをもとめて八十一首を得、加ふるに、点を以てせり。他日再閲せば、恐くは半減せむことを。朔記」とあり、なほつづけて写してしまふと、「翌二日、朝浴後、また之に対し、八十一首中稍可なるものを選んで十六首に至りし時、棲婢杯盤を運び来る。夜来の烟雨前山を覆て一望海の如し。朔又記」 「三日、晴朗、湖畔に遊んでかへる」といふ次第になる。」(1958年11月 未発表 『吉野秀雄全集』第3巻 p.217 1969年 筑摩書房)かすがのにおしてるつきのほがらかにあきのゆふべとなりにけるかもほほゑみてうつつごころにありたたすくだらぼとけにしくものぞなきちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさまめがきをあまたもとめてひとつづつくひもてゆきしたきさかのみち毘楼博叉まゆねよせたるまなざしをまなこにみつつあきののをゆくみとらしのあづさのまゆみつるはけてひきてかへらぬいにしへあはれふたがみのてらのきざはしあきたけてやまのしづくにぬれぬひぞなきしぐれふるやまをしみればこころさへぬれとほるべくおもほゆるかもはなすぎてのびつくしたるすゐせんのほそはみだれてあめそそぐみゆしらゆりのはわけのつぼみいちじるくみゆべくなりぬあさにひにけにみわたせばきづのかはらのしろたへにかがやくまでにはるたけにけりすべもなくみゆきふりつむよのまにもふるさとびとのおゆらくをしもさよふけてかどゆくひとのからかさにゆきふるおとのさびしくもあるかのぼりきてしづかにむかふたびびとにまなこひらかぬてんだいの祖師ひむがしのうみにうかびていくひにかこのしきしまによはしらみけむたちいればくらきみだうに軍荼利のしろききばよりもののみえくるこの16首については『自註鹿鳴集』(岩波文庫他)で八一の註とともに味わっていただきたい。歌は吉野の書いた通りとした。この中には歌碑になっている歌が3つある。それはどれだろうか? 場所は?なお吉野秀雄は「会津八一」と書いているが、私は「會津八一」と書くことにしているので、この文章では混在しているのを了解してほしい。また吉野の文のかな遣いもそのままとした。吉野秀雄のこの文章は次のようなことも教えてくれるので参考までに付記しておこう。1.會津八一の最初の歌集『南京新唱』がさっぱり売れなかったこと。「道人の歌集では、第一集の『南京新唱』(大正十三年十二月春陽堂刊)いちばん密度が高いとわたしなどは解してゐるし、今日あれの署名本でもあればひどく珍重されるにきまってゐるが、しかも出版後十年余りも経った昭和十年の頃まで、いくらでもない部数だったらうのに捌けきれず、新宿あたりの露店でたたき売りされてゐたもので、道人が或る日、「あまりにもったいないので、五円分だけ買ってきたよ」といって、紙包みから十冊取り出したことをわたしは忘れかねる。」(全集vol.3 p.214)2.昨年3月に亡くなったノーベル賞作家大江健三郎のお母さんが會津八一の歌を諳んじていて子供たちに聞かせていたこと。おそらく1945年前後のことだろうが、四国の愛媛県に八一の歌の愛好者がいたことが分かる。「道人の歌を熱愛する人々は、高崎ばかりでなくどこの土地にも、隠れた形でしかし根強く存在するらしい。噂によると、新進文士大江健三郎君のお母さんなんかも、道人の歌を諳んじ、子守歌代りにうたひながら、大江君兄弟を育てたとかいふことだ。」(全集 vol.3 p.215)
6月4日は「虫の日」だそうで、「まことにうまい日があるものだ」と感心したが、鎌倉の建長寺には隈研吾氏が設計した虫塚があるそうだ。写真ではよく分からないので、詳しくは実際に行ってみるしかなさそうだが、国立競技場の設計で知られる今や絶好調の氏、まさになんでもござれだが、こんな話を教えてくれた養老孟司さん(解剖学者、「虫供養」『図書』2024年6月)が、「昆虫は全世界的に減少の一途をたどっている。英国の昆虫学者デイヴ・グールソンの『サイレント・アース 昆虫たちの「沈黙の春」』(藤原多伽夫訳、NHK出版)によれば、1990年から2020年までの30年間で、7-9割の虫が世界から姿を消したという。」と書いているのに驚いた。豪雨と猛暑を繰り返す今年の梅雨だが、晴れ間に庭の草取りをしたりして感じていたのは、「今年は蚊が少ないな」ということだった。暑さのせいで水たまりが少ないのでは、と思っていたが、そういえば庭のご常連、蝶・蛾・蜂・ハエ・カマキリ・バッタ・クモ・アリ・カナブンなどが目立って少ないのに気付いた。前にはいやになるほどいたのにと思う。虫たちがいなくなれば、いずれは植物の世界に影響が及ぶのは必然だろう。******写真は庭に咲く季節の花 キキョウの白花。もう咲き終わるイワチドリの花。花は縦1cm に満たない小ささだが下から咲き始めて頂点の花が咲くまで最初の花は閉じない。ウチョウランもそうだが、花の寿命は神秘に満ちている。これはキツリフネ。東京近辺に咲くツリフネソウは紅紫色で花のつき方も違う。キツリフネは高原や山地によく似あうと思うが、平地でも種を飛ばしてよく殖える。
俳優久我美子さんの訃報が新聞の片隅に載った(『朝日新聞』6月15日)。6月9日に誤嚥性肺炎のために93歳で亡くなったそうだ。1946年に三船敏郎らと東宝の第一期ニューフェースとなり、木下恵介・溝口健二・小津安二郎監督らの作品に出演したが、「50年の「また逢う日まで」(今井正監督)では、岡田英次さんとのガラス越しのキスシーンが話題を集めた。」と書いてある。もう70年以上前の話なので「ああそうだった」と思い出す人は少ないだろうが、私がなんとなくそのシーンを見たような気がするのは、後に名画座かテレビでこの作品を見たからかもしれない。ただこの映画が、ロマン・ロランの小説「ピエールとリュース」を翻案して制作されたことを知って、文庫本で読んで感動したことはよく覚えている。後年初めてパリに行った時に、なによりも行ってみたかったのはこの小説の舞台となった場所だった。その時のことを書いた文章があるのでリブログします。(写真は小鉢に咲いた変わり花のウチョウラン)
最近テレビのニュースで、国立市(くにたちし、東京都)で完成直前のマンションが突然建築を中止して取り壊すことになったという出来事があったことを知った。JR中央線の国立駅で降りると、南口の正面は南に広い一直線の通りで、一橋大学や高校があり、春は桜の名所で知られている。また南東と南西の方にも直線の道路が通じていて、南西の方は富士見通りといって道路の奥(正面)に富士山の姿が見えることが知られている。ニュースになったマンションはこの通りの奥の右手に建っているが、テレビの画面ではそのために富士山の右半分が見えなくなっている。このマンションを建てるにあたっては、おそらくこうしたことのために住民の反対があったようだが、法律にも市の条例にも違反していないので反対を押し切ってこれまで建設が進められてきたらしい。ところが突然計画を中止すれば会社の損害や入居予定者の迷惑が相当に大きいだろうに、なぜ中止なのか。その本当の理由は? その後のニュースがあったのかどうか分からないが、東京(江戸)では富士山が見えるということが人々の大きな喜びであり、価値があることを改めて感じさせてくれる出来事だった。台地の山手と低地の下町が複雑に入り組も東京の中心部(23区)は、あちこちに富士山を眺められる場所があり、住民の喜びであったのだろう。今でも富士見町・富士見通り・富士見坂と「富士見」のつく地名があちこちに見られる。私の住んでいる東村山市は都の中心部よりは西に位置するが、富士見町がある。私が今の家に住み始めたころには2階から富士山が眺められた。しかし周囲に2階建ての家が増えた結果いつからか富士山が見えなくなってしまった。だが、市の一部である都民の水甕―多摩湖(村山貯水池)まで行けば、いつでも西の湖岸の森の上に富士山の姿を眺めることができる。江戸時代の人たちが、江戸の町からの富士山の眺めを喜んだことは、広重や北斎の版画を見れば分かることだが、その喜びは明治・大正・昭和と引き継がれてきた。しかしその後ビルやマンションが乱立するにつれて名前だけになりつつあるのが現状だろう。その一例をあげるならば、富士見坂で知られたJR西日暮里駅近くの坂道が、正面の遠くに建ったビルかマンションのために富士山が全く見えなくなってしまった。坂の上にある荒川区の説明板に「都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。」と書いてある横に、「都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。」と書いた紙が貼ってあった。富士の眺めを楽しんだ住民の無念の思いが伝わってくるようだった。******ところで永井荷風は東京散歩『日和下駄』で、最後の章を「夕陽(せきよう) 附富士眺望」と題して、東京のあちこちからの富士山の眺めを大いに楽しんでいる。その一端を紹介しよう。「東京における夕陽の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月、十一月の間を以て第一とする。山の手は庭に垣根に到る処新樹の緑滴らんとするその木立の間より夕陽の空紅に染出されたる美しさは、下町の河添には見られぬ景色である。山の手のその中でも殊に木立深く鬱蒼とした処といえば、自ら神社仏閣の境内を択ばなければならぬ。」(岩波文庫 p.98-99)「ここに夕陽の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に連る箱根大山秩父の山脈までを望み得る。青山一帯の街は今なお最もよくこの眺望に適した処で、その他九段坂上の富士見町通、神田駿河台、牛込寺町辺も同様である。関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて江戸児は水道の水と合せて富士の眺望を東都の誇となした。」(p.99)「神田聖堂の門前を過ぎて、お茶の水に臨む往来の最も高き処に佇んで西の方を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には造兵廠の樹木と並んで牛込市ヶ谷辺の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込揚場辺の河岸まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常に富嶽とその麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。しかして富嶽の眺望の最も美しきはやはり浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の夕陽に照されて雲と霞は五色に輝き山は紫に空は紅に染め尽される折である。」(p.100)「東京の東京らしきは富士を望み得る所にある。われらは徒に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の光景全く破壊せられんとしつつあるの時、われらは世人のこの首都と富嶽との関係を軽視せざらん事を希うて止まない。」(p.101)たまたま昨日は小池現東京都知事の都知事選への出馬表明がテレビで報じられた。今回の立候補予定者は40名前後にも及ぶという。信じられないことだが、大変なお金を使う選挙で、はたして東京は良くなるのだろうか。またカスハラなどといったカタカナ語やカタカナ英語が巷に氾濫して、ついていけない人たちが殖えつつある時、荷風の「われらは徒に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。」という指摘に耳を傾けたいと思うのである。東京の中心部(23区)の地上から富士山が見える場所がはたして今もあるのだろうか。残念ながら私は知らないので、もし見つかったらこのブログで報告しようと思う。(写真はいずれも西武池袋線東久留米駅からで、下は冬の日没直後の眺め。この通りも富士見通りという。)関連した記事 → 見えなくなった富士見坂
今年もはや6月、ホタルブクロが咲き始めた。都会住まいなので自然の状態でホタルを見る機会はないが、いつもブログで拝見。自分の経験としては、これまでで一番感動したのは、尾瀬ヶ原の山小屋の近くで見たたくさんのホタルが舞う光景と、京都の町の夕闇に数は少ないが小さな光が舞う光景。植物園の南東、疎水分流が流れる辺りを歩いていて偶然出会った。しばらくはアジサイの季節。道を歩いているだけでもいろいろな花に出会う。うっかりしていたら庭の他のアジサイは盛りを過ぎてしまった。この時期、庭の大敵はドクダミ。あちこちに白い花を咲かせている。抜こうと思うと地下茎が長い、茎をハサミで切るとそこから2芽が伸びてくる。たくましい生命力には脱帽だが、とにかく困っている。
先日テレビでナンジャモンジャの木の花が見ごろということで話題になっていた。この木は大変数が少なくて、東京の明治神宮外苑にあったのが知られていたそうだ。ここはそのまた昔は青山練兵場で、永井荷風が『日和下駄』で紹介している。しかしこの当時の木はその後枯れてしまい種を採って殖やした木が今は関東各地に広がっているそうだ。荷風の名が出たところで日頃不思議に思っていることに移るが、ブログにログインして「ホーム」を開くと、運営局が「アクセス解析」というのを教えてくれる。昨日までの一週間でアクセスの多かった記事などを教えてくれるのだが、2016年4月に掲載した「偏奇館のことなど」がいつも含まれていて、先日はトップになっているのに驚いた。この文章はずいぶん長いので荷風に関心が深くないとあまり読む気にならないと思うのだが、なぜかいつもアクセス数の多い記事にその名を見るのが不思議でならない。どんな人が読んでくれているのだろうかと思っていた時に、偶然書店で『「東京文学散歩」を歩く』という本を目にして手に入れた(藤井淑禎 ちくま新書 2023年7月)。この本は近現代文学の作者や作品に関する東京の文学散歩の本を幾種類も残した野田宇太郎(1909-84)の本を丹念に読み、実際に歩き、論じた珍しい本で、私の体験ともずいぶんと重なるので興味深く読んだ。野田の文学散歩は、最初は『日本読書新聞』に連載されたが、それがまとめられたのが『新東京文学散歩 増補訂正版』(1952 角川文庫)、『新東京文学散歩 続篇』(1953 角川文庫)になる。私が持っているのもこの2冊の本だが、その後も野田は精力的に調べる、歩くをくりかえして次々と文学散歩の本を出版した。******では、偏奇館の辺りについて野田が書いているのを読んでみよう。「三河台町へ向う電車通りから右へ入って、麻布小学校の前を通ると、その道とT字形に市兵衛町となる。その通りの一部焼け残った街を右へ曲って、経済安定本部総務長官官舎の表札のある豪勢な大邸宅の前にさしかかる。(中略)先に進むと、市兵衛町巡査派出所がある。道は左へ広く、やや高くなっているのを幸いに、長官官舎に尻を向けて桜並木のその道を約四五十歩、左側の低地になった焼けあとの新家屋をみながら進む。左へ折れる片側道の下り坂に入る。すぐに正面の焼けあとにつき当る。左端は石垣の小高い崖になって下の民家へ続いている。その石垣の上は茂るにまかせた一群の笹薮のさざめき。その藪の右側に、麻布市兵衛町一ノ六難波治吉、と表札のある、新しい平屋の住宅が建っている。ここが、私のたづねる永井荷風の偏奇館の焼けあとである。荷風が大正七年に大久保余丁町の断腸亭を人に譲り、一時築地二丁目三十番地に仮寓して、そこから此の地に洋風の木造二階建のささやかな偏奇館を新築して移ったのは大正九年五月、四十二歳の時であった。爾来今度の戦火にかかるまで、約二十五年を住んだ場所である。」(文章の一部を常用漢字、現代かなづかいに直した。P.205-6)ずいぶんと丁寧な道案内には驚くが、それにしてもたどり着いた難波宅が、偏奇館のあった場所だという断定の根拠になにも触れていないのはなぜだろう。焼ける前の偏奇館は何度も訪ねているからその場所は熟知しているということなのだろうか。もう一つは、偏奇館は荷風が建てた新築の洋館だったのだろうか、ということである。荷風は「偏奇館漫録」で次のように述べている。門を出で細径を行く事数十歩始めて道路に達す。細径は一度下って復登る事渓谷に似たれば貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく、番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑はすによし。偏奇館甚隠棲に適せり。(『荷風全集』第14巻、岩波書店)自動車が入れないような狭い道で、辺りはみな同じ番地だから隠れ住むのには最適だと言っている。だから焼ける前の偏奇館を何度も訪ねたりしていないとその場所を特定するのは難しいと思うのだが(注)。また、映画「濹東綺譚」の監督新藤兼人が著書『「断腸亭日乗」を読む』で、「どうやら一坪五十円で買ったようです。土地は九十九坪、建坪は三十七坪の二階建てです。外人が住んでいたのに手を入れて新築同様にしたといっています。」(岩波現代文庫 2009)と書いているので新築とはいえないだろう。******東京の中心部(23区)は、西から広がっている武蔵野台地の末端に位置し、低地の下町には川と運河が、台地の山手には下町と結ぶ坂道が無数にあり、複雑に切れ込む大小さまざまな谷間にも人が住む世界でも珍しい大都会だと言われる。江戸城は(現皇居)はこうした地形を巧みに利用して築かれ、江戸・東京の町の景観も生まれた。『「東京文学散歩」を歩く』の著者によると、野田宇太郎が初めて偏奇館跡を尋ねた時には気づかなかったようだが、その後飯倉片町から市兵衛町に向かった時に我善坊谷町の眺めに感動したことが野田の『改稿東京文学散歩』に書いてあるそうだ。「ほぼ東西に楕円形になった谷間の住宅街」の「中央を縦に一筋、串のように道が貫いている」。野田はその道をゆっくりと歩く。「南側は飯倉町の丘で小学校ビルにつづいて郵政省ビルがそびえているし、北側はもと市兵衛町の丘なので、陽陰の町という感じがする」。市兵衛町へ行くのが目的の野田は、小さな十字路を左へ曲がり、坂道を登り始める。「坂の道幅は狭く勾配はかなり急で、いそぐと息切れを覚える。一歩一歩我善坊谷の町のいらかが眼下にひろがってゆく。一本の桜のかげで歩みをとめた。こんなたのしい逍遥の坂道があり、坂道の下に忘れられたような谷間の町が眺められるのも、麻布なればこそだと思った。」」(『「東京文学散歩」を歩く』p.194-5)高度経済成長の時代以降この麻布周辺も急速にその姿を変えていった。都電の走っていた坂道(谷)から電車が姿を消して高速道路ができ、それが道源寺坂の前あたりで2つに分かれて、大きな道と高速道路が町の中に新しくでき、ビルやマンション、ホテルが次々と建つ再開発が進められて、町の姿は急速に変貌していった。それでも我善坊谷町は2019年頃まではその姿をとどめていたようだが開発の波にのまれて町名も今は麻布台1丁目、市兵衛町は六本木1丁目となり、由緒ある地名はたんなる記号のような地名となってしまった。偏奇館跡を尋ねて永井荷風の面影を偲ぼうとする人は、道源寺・西光寺の脇の道源寺坂を下って市電(都電)停留所福吉町に出て、銀座や下町に向かう荷風の姿を『断腸亭日乗』の次の一節から思い描くことくらいしか出来ないだろう。「黄昏銀座に往かむとて道源寺阪を下る時、生垣の彼方なる寺の本堂より木魚の音静に漏れきこゆ。幽情愛すべし。 梅が香や木魚しづかに竹の奥 木魚ひびく寺の小径や梅の花 (1934. 2.18)道源寺坂は市兵衛町一丁目住友の屋敷の横手より谷町電車通へ出づる間道にあり。坂の上に道源寺。坂の下に西光寺という寺あり。この二軒の寺の墓地は互に相接す。西光寺墓地の生垣は柾木にてその間に蔦と忍冬の蔓からみて茂りたり。五、六月の交忍冬の蔓には白き花さき甘き薫りを放つ。花の形は図に描けるが如し。(1935. 6.3) 隣家の梅花満開なり。道源寺阪下西光寺の庭にも梅花星の如し。」(1938. 3.17)(注)野田宇太郎が登記所に行って登記簿で所有権の移転、公図で位置の確認をすれば、荷風が偏奇館の土地を処分したことは確実なのでその場所を特定することができるのではないかと後に考えた。その後『断腸亭日乗』の1919 大正8年11月13日に「市兵衛町崖上の地所を借る事に決す」とあるのを思い出し、戦災にあうまでそのままならば登記所に行っても荷風の名は出てこないので、その場所を特定することは難しいのではないかと思った。とすれば、新藤兼人の「一坪五十円で買ったようです。…」はどう理解したらいいのだろうか。また、野田はどのようにして偏奇館の焼け跡を特定できたのだろうかと思う。 2024/6/3 関連記事 → 偏奇館のことなど 庭のスダチの木の下に咲くセッコク薄いピンクの大きな花が美しい
このブログを運営しているAmebaはいろいろと親切で、最近は固定記事をしきりに勧めてくれる。ブログのトップ(表紙)に特定の記事(文章)を5つまで常においてくれるサービスで、読者がアクセスしやすくなる利点がある。最初に勧めてくれたのは「會津八一歌碑一覧」だった。新潟・奈良を中心に各地に建てられている會津八一の歌碑を訪ねて紹介した文章で、確かに毎週どこかの歌碑が読まれていることがブログ運営局の分析でわかった。しかし、いろいろと考えて次の5つの文章を固定記事とすることにした。 會津八一歌碑一覧 旅に出て 旅に出て 2 旅に出て 3 旅に出て 4 私のブログは、最初はホームページ「ちょっと長めのエッセイの森」というのから出発した。ところがサーバーだったJCOMがサービスをやめてしまったので、やむなく手間のかからないYahooのブログとして再出発することにした。新しい文章の他にホームページに掲載した文章を出来るだけ載せるようにした。ところが今度はYahooが突然ブログのサービスをやめることになり、やむなくこのAmebaのブログにお世話になることになったという経緯がある。ブログにはあまりみかけない長い文章の記事があるのはこうした事情からである。私としてはいろいろと調べて関係地にも足を運んで書いた文章には思い出や愛着があり、忘れ去られて過去に埋もれてしまうのは残念な思いが捨て去れなかった。そこで考えたのがブログで本のようなものを作ることだった。その結果テーマや長短さまざまな文章を組合わせて『旅に出て』というタイトルの本が4冊出来た。収録した文章それぞれに簡単な説明をつけ、クリックすればすぐに読めるという訳である。『會津八一歌碑一覧』を置いたのもやはり読む人に便利と思ったからである。筆者のおすすめは、會津八一に関しては「山鳩の声」「わたつみの」、中国の敦煌に関連して「ウォーナー伝説をめぐって」「陽関に立つ」、柳田國男に関連して「ナニャドヤラ」「椎葉村と柳田國男」、山口県青海島で出会った「くじら墓」と金子みすゞのこと、越中おわらの「風の盆」、ヨーロッパのアルプスで九死に一生を得たが、小田原で関東大震災により家族全員が犠牲となった植物研究家のこと「なだれ」、究極の清貧を実践したフランチェスコの「石の街アッシジ」、大聖堂とキャパの写真が戦争を永遠に伝える「シャルトルにて」、永井荷風が26年間住んだ麻布の台地に建っていた「偏奇館のことなど」、わだつみ像をめぐる「未来を信じ」、戦地で倒れた青年の「日本が見えない」などなど。ブログの運営局は、ブログをみる人はパソコンよりもスマホの方が多いと教えてくれる。私はパソコンでブログをみて、自分のブログもパソコンで作るが、今はスマホ全盛の時代になったのだろう。今度の、ブログのトップ(表紙)に写真を飾り、固定記事を置くサービスは有料だがスマホだけである。私としてはパソコンでもできればと思うのだが。(写真は庭に咲くアマドコロとオダマキ)
東京辺りのサクラはもう終り、サクラ前線は山地や東北・北海道へと移っていくことだろう。このサクラ前線よりも少し早く咲くのがカタクリ前線だろうか。といっても、最近の不順な天候ではどうなっているか分からないが。先日南魚沼(新潟県)の方のブログで、「六万騎山のカタクリを見に行ったがもう終っていて残念だった。坂戸山に行ってみよう。」というのを読んで、ああ、私も何回か両方の山に行ったなと懐かしく思い出した。両方の山は、上越新幹線の越後湯沢駅で在来線に乗換えて六日町駅・五日町駅で降りると歩いていけるカタクリの山として知られているが、近くに名山八海山が聳えており、銘酒八海山でも有名なところ。かつて “カタクリ讃” として自分のブログに載せたが、六万騎山のぶんをリブログします。坂戸山の “カタクリ讃 ” “カタクリ讃 2” もご覧ください。
カタクリは珍しい野草ではなくて、日本中の林などに今頃は咲いているようです。今は見かけませんが八百屋で春の山菜として売っていた時もありました。では家の庭に咲かせるのは簡単かというとそうでもなくて、いろいろと工夫しても消えてしまいます。ある時私の撮ったカタクリの写真を見て東北出身の人が、「色が薄いね、こんな色ではないよ」言われたことがあります。写真で見ると東北地方のカタクリは確かに色が濃いようです。実物を見てみたいと思いながらまだ実現していないのが残念です。東京でも自生地を保護している所が多いので、カタクリはそう珍しくはないのですが、色の薄い花が多いです。「色の濃い花を」というのが私のカタクリの写真の狙いなのです。コロナのせいでここ数年間はカタクリの花の写真を撮りに出かけなかったので、サクラの開花を見てあまり知られていない内緒の場所に出かけました。東京から秩父(埼玉県)に向かう西武線が通る正丸峠の手前の山里です。ちいさな丘の斜面に群生しているのですが、残念ながら少し遅かったようで、見ごろはとっくに終わった様子でした。それでも頑張って撮った写真です。おまけはヤマエンゴサクです。カタクリの斜面の下の方に群生して、今が見ごろでした。アズマイチゲの葉が群生しているのもいくつか見つけたので、忘れなければ来年は見に来ようと思ったのでした。
去年はずいぶん早かったですが、今年は開花宣言が近年で一番遅いとか。自然の変動はあらゆる面に及んでいるようです。開花が告げられたと思ったら、あっという間に満開になりました。これも不思議です。満開のサクラの眺めは素敵ですが、写真ではどうもうまく伝えられません。人間の眼の方がカメラより素晴らしいという事でしょうか。私の腕が悪いだけのことかもしれませんが。本当はこの日はカタクリを見に行ったのですが少し遅すぎました。写真は次回に。 (埼玉県飯能市にて)
岡山の法界院住職松坂帰庵の前回の文章の続きと鐘銘の模様を描いた画家竹内清の文を紹介する。『八栗寺の鐘』という小冊子には、會津八一の「八栗寺の鐘」という一文も収録されており、新しい梵鐘誕生の中心になった3名がそろっているが、八一の文はすでに『全集』第七に収録されており、また『続 渾齋随筆』(中公文庫)にもあるので、このブログには掲載しないこととした。興味を持たれた方はぜひご近所のお寺の梵鐘の鐘銘をご覧になっていただきたい。八栗寺の鐘銘がいかにユニークかお分かりいただけると思う。またこのブログ収録の私の一文「わたつみの」もお読みいただければと思う。******八栗寺梵鐘と秋草(艸)道人松坂 帰庵(前回からの続き)十一月十三日、秋草(艸)同人からの手紙にかけものの場合と異り、永遠に陽光のうちに曝さるるものなれば文字の出来映が、専門家にも、門外者にも、道人にも、俗衆にも、よく見えねば、外光の中に懸垂さるる鐘の文様としては全然失敗(下略)と云って来られた。得難い銘文を揮毫していただいたからには立派に鋳造せねばならぬ。それには鋳型の彫刻が肝心である。職人に彫刻させては文字を台なしにくづしてしまうので、岩沢氏に鋳型の版木を作ってもらい、文字の彫刻は私が執刀することにした。十一月廿四日、先生からの手紙に(前略)その刻者が拙者の書風に慣れざる人なれば、結果はむしろ恐るべきにあらずやという懸念も禁じがたかりしところ、本日讃岐よりの御たよりによれば、貴方にて御自身御揮刀可被下(くださるべき)きよし申来り大安心仕(つかまつり)候。何分よろしく御願申上候。何卒御力によりてよき鐘をつくり得て後世に示したきものと存じ候と云って来られた。私は精進して、しかも楽しんで彫刻し終って、拓本を御目にかけたところ、卅年十二月卅一日先生からこの度は拙筆鐘銘につきて久しく精刻の労を惜ませられず、めでたく御奏刀被下、墨本を拝見するに満足の至りにて、ありがたく奉存候。別に電文にても申上候へども表謝如此(謝をあらわすこと かくのごとくに)候(下略)のお言葉をいただいた。鐘の文様は岡山大学講師竹内清先生に依頼して、正面鐘座の上に五剣山を描き、上帯並に裏鐘座の上に飛雲をあしらい、裾には青海波を雄大に作図していただいた。その後、岩沢氏を督励して鋳型を作り、去六月六日火入を行った。六月廿三日上京して中井僧正と共に新鋳の梵鐘を見た。私は戦後、各寺の梵鐘の銘文を書いて、鋳造完成して拝見すると何時も文字は台なしである。この岩沢の鐘の文字ほどに鋳造せられた鐘は全く無い。それは其筈である。鋳型は私が精魂を尽して彫刻したのだもの。中井僧正と私は耳を澄して、鐘の音を聞いた。その音のなごやかなそして余韻の調子がまことによろしい。私は中井僧正に「良い音ですな」と云って安心とよろこびを語った。中井僧正も満足せられた。岩沢徹誠氏の苦心の甲斐があったというものだ。私は鐘銘と文様の拓本をとった。拓本を熟視して、秋草道人の書風を銅版として遺すことの出来たことは、日本書道界のため慶賀すべきことであると思った。秋草道人もさぞ満足せられることであろう。秋草道人は八栗寺の鐘銘を揮毫せられたころから健康を害されて病臥せられた。昭和三十年十二月卅一日の手紙に拙者老境に入り、近来別して意気地なく、日々疲労して何等為すところなく、病臥致し居り候へば八栗寺にまいりて、実物拝見のことは永遠にあきらめ候よりほかなしと存じ候とあって、昭和三十一年十一月廿一日死去せられるまで、八栗寺鐘銘の歌以後約一年間一首の歌もなかった。大和古寺を巡礼して詠まれた歌集「南京新唱」が先生の出世作であり、八栗寺鐘銘の歌を最後として寂滅せられたことはまことに感無量である。 (終り)八栗寺梵鐘の文様竹内 清突然、松坂旭信師から、会津八一博士銘文の八栗寺梵鐘の波文模様を依頼された時、私としてはやり甲斐のある仕事なので喜んでお引受けしたのである。波模様については、かねて私も研究していたので多少の自信はあったが、秋草道人の筆を旭信師がまことに立派に彫り出され、それを手拓されたのを見せて貰った時、これは到底ありきたりの様式では調和しそうに無く、一度海を見て来ないことにはーと何かせき立てられ様な気持になったのをおぼえている。もともと旅の好きでない私も、とも角四国へ行ってみようと思い立って、丁度大阪から来あわせていた家内の妹に家内それに子供も加えて楽な気持で連絡船にのって、波を充分眺め、写生し、写真にも撮り、また屋島から五剣山も写生しなどして、船の往復の間に大体の様式をまとめることが出来たのである。帰って三枚ばかり下描きを作ってみて、最初に波文と形式を正倉院鏡により乍らも、あの海景と五剣山の偉容に副わしむるよう、波文に奥行きをつけて距離を出すーつまり渦を丸でなく楕円にするという事で描きあげたようなわけである。五剣山は思い切って塊りにして線描をさけたが、この文様が幸い秋草道人から別に文句も出なかったそうで、早速仕事にかかったように聞いている。実物をまだ拝見していないので鋳造されて効果がどんなに変化しているかも知れないがしかしそれにしても私の生涯の仕事の中で、こんな仕事をさせてもらった事を大変有難く思っている。 昭和三十二年六月記(岡山大学講師、二科会会員)アズマイチゲ
四国霊場の一つ八栗寺(香川県)の梵鐘を新しくつくるにあたり、住職中井龍瑞が法界院住職松坂帰庵と相談して會津八一に鐘銘を依頼した結果ユニークな梵鐘が完成した。前回は中井龍瑞の文を紹介したが、今回は大きな役割を果たした松坂帰庵の書いたものを紹介する。冒頭の會津八一の経歴を紹介した部分は省略した。また「秋草道人」は「秋艸道人」が適切なのだが原文を尊重した。文章は古文的、漢文的な表現や歴史的かなづかいが用いられているが、かなを現代かなづかいに改めたほかは原文を尊重した。******八栗寺梵鐘と秋草(艸)道人松坂 帰庵(前略)さて、昭和三十年彼岸過、中井僧正来院、八栗寺に梵鐘を新鋳するにつき、法界院所蔵の香取秀真先生鋳作の洪鐘を一見して、私に意見をもとめられたので、私は即座に、秋草道人という人あり、此先生に一首の作歌をお願いして、此先生に揮毫を願って鋳造せば後世珍重せられるでしょう。鋳造は岩沢鋳造所は何(ど)うですと申したところ、万事宜敷(よろしく)と一任せられたので、秋草道人に一首の作歌を依頼しましたが、十万円菓子料を奮発なさいと云ったところ、中井僧正は快く何卒可然(なにとぞしかるべく)ということであった。中井僧正はその時秋草道人を知られざりしに、私の尊敬する先生ということと、座敷に掲げてある額の文字を見て、秋草道人の人物を見抜かれた眼力と、私を信ぜられた友情には敬意を表せざるを得ないので、早速秋草道人に恐る恐るお願いした次第である。秋草道人は実に厳しい人であって、吉野秀雄先生の追憶記に道人は実にきびしい人で、門下の許可を得るだけでも、長い年月を要するが、その直門の者共にも、時々破門や絶交が宣告され詫びを入れてもらうのにも、これまた一両年ないし数年がかりというのが常だった。とある程の頑固な人である。この先生は人の依頼をうけて作歌するようなことは絶対にないのである。秋草道人は先生の墨蹟集「渾斎近墨」の序に私は元来御所望をうけても、すぐ筆を執ることの出来ぬ性分でありますし(中略)軽々しく揮毫をもとめたり、またこれに応じたりすることを、良くない習慣だと思っている。と記してあるほどだから、作歌と揮毫をお願いすることは薄氷をふむおもいであった。秋草道人の歌碑は五基あるので、石に刻した文字のおもむきについては経験をおもちでしたが、銅版に鋳造すれば自分の書の味が何うであろうかということ、と銅鐘に鋳造すれば書風を千歳の後に遺すことができるという楽しみを感ぜられて、私への返事に従来石碑は手がけ候へども、鋳金ものは無経験にて候へば、従ってすべて不案内にて候へども此の件はおひきうけ可申(もうすべく)と存候、そのほかに歌を詠むことも拙者にとりてはまことに重大の仕事なれども何とか作り上げ可申と存じ居り候。寸法も大略御示しによりて承知致し候へども、字配りしたる実物の立体感はまだ眼前に泛(うか)び来らざる故、その点研究可致(いたすべく)候(下略)この手紙は十月卅日正午に認(したた)められたものである。私は八栗寺の景観と、その鐘声の及ぶ範囲の風光を詳細に申送ったのである。すると、十一月八日付で、鐘名(銘)をいただいた。開封一見、感極まるを覚えた。文章の簡潔にして、歌詞調高く書の古雅なること。当代第一人者の高風を千歳に伝うるに足るものと歓喜した。(前略)数日朝夕推敲の末、ようやく次の如く書き上げ候。(中略)最初は「会津八一」と署名し、これは神仏に対して当然の敬意の表現と思いしも、「秋草道人」の方が一般的に知れ渡り居る如く考え直してそれに従い申候。(中略)歌一首は四日間かかりて詠み据えたるものにて、自ら悪作にあらずと自信あるもの(中略)、この寺の名は柴野栗山(しばのりつざん)の号に源(もと)づくところなることに興味を覚えこの鐘声を地下の大儒の聞かんことに空想を走せつつ筆を馳せ申候、ことに栗山も相当の書道家なりし故、世代を異にせば彼が筆を馳すべかりしことなど考え及び申候。(中略)仏刹の重要なる法具なることと、鋳工の手にかかるものなることにて、奔放に筆を走らすることも出来ず、甚だ窮屈に四角張りて数日を送り申候。(下略)(続く)アズマイチゲ
毎年3月になると私にとって特別な日が9・10・11日と3日続く。3月10日 東京大空襲の日 1945年アメリカは周到に準備して10日の未明に木造家屋の密集する下町に大量の焼夷弾を落して町を焼き尽くした。一晩で民間人約10万人の犠牲者という。広島・長崎の原爆犠牲者に近い数字だ。ウクライナやガザの犠牲者をはるかに超す。これから5か月、8月の敗戦までに東京の都心と周辺の町は無差別空襲のために焦土となり、多くの犠牲者を出した。神田明神の近くで生まれ育った私は、たまたま東京にいなかったので地獄を体験しないで済んだが、思い出の詰まった家に再び帰ることはできなかった。当時横川国民学校の教員だった井上有一は学校で九死に一生を得たが、後に血を吐くような思いで「噫横川国民学校」を書いた(写真)。井上有一(1916-85)は前衛書家としても知られている。東京都心の西の郊外、畑と林と結核療養所・病院の多かった清瀬村(現清瀬市)に大空襲から一週間後、包帯でぐるぐる巻きになった被災者が木炭で動く軍用トラックにたくさん乗せられて病院に運ばれてきたが、破傷風などで半数以上が亡くなった。身寄り不明の33人の遺体は近くのお寺に土葬されたという。このようなことが各地であったのだろう。関連記事 → 東京大空襲関連記事 → 東京大空襲が産んだ悲劇の傑作(これは私が書いたものではないが、当時の井上有一について詳しく書かれているので紹介する。)3月11日 東日本大震災・福島第一原発被災の日 2011年私は東京に住んでいたので東北地方に行く機会はいろいろとあった。大学以来の親友が秋田や福島にいた。私の好きな彫刻家舟越保武や佐藤忠良は岩手・宮城県の出身。高村光太郎や柳田國男とも東北は縁が深い。私は大震災前の三陸鉄道には全線に乗っていた。太平洋沿岸の主な町や村はいくつも訪ねていた。大震災は大きな衝撃だった。それに私自身も栃木県を走っていた電車で被災。上下左右に強烈に揺れた電車は運転不能となり栃木市の学校の体育館に一晩お世話になったのだった。私の知っていた東北地方の太平洋沿岸の町や村は甚大な被害を受け、今では新しい町や村として再生し、新しい人のつながりができている。しかし被災から13年、今なお故郷に戻れない人がたくさんいる。関連記事 → ある駅の風景 忘れられない光景 あれから11年 ナニャドヤラ3月9日 ?この日は私の誕生日、私と家族にとって特別な日。私はもう老人という言葉に十分ふさわしい歳となってしまった。元気でいることに感謝。こうやぼうき