ふしぎなゆめをみた。

田舎の校庭のような広場で
人々に混じって、そこにいた。

わたしたちはまっていた。
感情のゆらぎらはさまざまで
ろうそくの火みたいに
強まり弱まり

集団は有機的に息づく
一つの融合体のようだった。

わたしはそこで待つ者はなく、
ただ居合わせただけらしかった。

やがて広場のむこうから


やってくる。


一瞬の気配ののち


わたしたちは混じり合っていた。

それは、過去になにかの犠牲になったこどもたちやそこにいた大人たちで
わたしたちはその到来を待っていたのだ。

そこでビデオを撮る

というのがひとつの主題だった。

これは昔見た映画の影響かも。

ふわりと地に降り立ったこどもたちは
様式はさまざまだったがみなモノトーンの服を着ていた。

待っていたのは子をうしなった親たちだった。
あるいは友人
あるいは恋人をうしなった人たちだった。

わたしたちは運動場のような広場で
まじりあって
駆け合って
その様子はビデオに収められた。
それぞれ親子がカメラの前で
喋ったりただ写ったりもした。

親たちはこどもを忘れることなどなく
こどもも親を求めつづけるのだな。

そんなことを切なく見つめるわたしがいた。

ふたつの集団は交ざりあい、
しかし決して融けあうことはなかった。

死者と生者は
このときが終わればまた会えなくなる。

そこにいた誰もがそれを知っており
ただその時間をいとおしみ
慈しんでいた。

こどもたちはほんとうに可愛らしく、
こんな存在を失った人の心の在りようをおもって、静かにせつなかった。


なんだかふしぎな夢だった。



きのうはいろんな場所に出かけていった。


学校でこどもたちの授業を見たり
PTAのお手伝いをしたり
PTAの担当の仕事をしたり
そのあと洗濯機を修理してもらって
渋谷の選挙フェスにすこし参加して
それから高円寺のカフェmomomoで
友人の個展のレセプションにいき
そこで仲間と奏で合った。


たくさんのたいせつな人たちとであったけれど
なんだか心が追いつかなくて
歌も歌った気がしなかった。

でもいま
すこしずつ
きのうのことが
心に落ちてきて

きょうは
ふしぎな夢をみたし

きのうの風景が

主にmomomoで
あの青い絵たちがある
あの景色のなかで

わたしたちは
なにか
身体を抜け出したようになって
ろうそくの火のように
ゆらぎゆらぐ
ひとつの融合体になっていたようだ。

といま感じる。

身体と心が
すこし離れることはある。

わたしはそうなるといつも
パニックになって
ひどく落ち込んだ。

じぶんが「正しい」状態じゃないと
不安になった。
なにかきっと悪いことが起こるとおもった。

だけど
心と身体はいつもピッタリ重なっているではなく
離れたり
色濃く重なったり
混じったり
しながら
ただし
決して互いから去ることはない。

そんなことをいま、おもう。

冒頭の夢の意味はこれから
ゆっくり心に落としこみ
その残滓をたのしもう
とおもう
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