「依他起自性、分別縁所生」


外界をとりあえず扱わないはずの唯識に「縁」(間接的原因)が出てくるのはおかしいのでないか?

いえいえ、唯識における「縁」は、"解釈するチカラ"みたいな意味のようです.


スラムダンクで三井の指を離れた3Pシュートが、入るか否か?そこから始まる回想シーン。苦しみつらさを乗り越えてきたからいまの彼がある。だから、きっと . . 


これをやるアニメには、悪者がいなくなってしまいました!(あれ以来そーゆーのが増えた)


複式夢幻能という、伝統芸能に伝えられてきたパターン  (歴史を補償する機能として平家物語なども想起させられるのです)


大事なのは、「悪く解釈しない」こと!※


因縁果

ものごとには原因がある。しかしより良く解釈する(よく噛み砕いて消化する)ことによって、運命の意味自体が良いものに変わってゆくのでしょう


(良い解釈がはいる余地がない . ."等無間縁"がスパイラルしたものを無間地獄と呼ぶのでしょうか?)


認知行動療法、実存分析、ライフスタイル論、いろいろ呼び名はあるけれど。大事なのは表面上の事実ではなく それにその人が込める想い、意味


悪酔いするもしないもこれ次第!?もしかして



※我法倶空、エゴにも偽善にも、善にも不善にもかたよらず−なかなかむつかしいことですナ\(^o^)/






じぶんのブログなので、勝手なことを書かせていただこうと思います


ヨガ哲学に、プルシャとプラクリティという用語が出てきます. 

(私見です) 我/法 はこれに対応しているのでないか?

実体がある/なし、見解の相違によって意味が全く違ってくる(ここが四分説の本領です). つまり

"我" をアートマンと見るか、それとも煩悩執着心とみなすか?ということ


それで、第八 阿頼耶識 と、第七 末那識  に分けられた概念を必要としたのではないか。


実体がないことにこだわると、不動明王という概念が消えてしまうかもしれない(これ、いかにもゾロアスター教が伝わった、て感じしますもんね)


玄奘は有相派 . . ということでニッポンのお不動様は元気なのかもしれませんね


勝手な私見ですが、このプルシャ/プラクリティのヨガ思想(サーンキヤ学派)は、はるかギリシャからヘレニズムとしてプラトン主義が伝わり影響したものではないか、と勝手に妄想しています。永遠不変のイデア。その概念はエレア派のパルメニデスによってより研ぎ澄まされたという. プラトン謂わく。かの議論を見れば、龍樹の思想とひどく似たものをおもわせる . .