ボールペン字でですが、唯識三十頌 を暗書できるようになりました! レポートさせてください💦


"仮に由りて我・法ありと説く"
(わたし と 私に関わるすべての人やもの との対立区別はフィクションであり、本来単なる手段にすぎない)

唯識実性=勝義無性は 
"さきの我・法に執する所を遠離するに由る"、とあります

○我執=煩悩障、 を克服したのが"涅槃"
○法執=所知障、の克服に精進絶え間ないのが"菩提"

涅槃と菩提の対立を超えて一体となり、わだかまりが全くなくなったところに【安楽解脱身】がある、というように書かれています
(上座部と大乗で対立するようなのは本末転倒なのですね)


因陀羅網と大日如来がセット(法界)になっている、みたいなイメージでしょうか

毘盧遮那 単体だけでは、過去の殺戮の罪におののく元・阿修羅王にすぎないのかもしれませんな

若しくは 知床のクマと、そのクマの縄張り大自然シャケハチミツ (´(ェ)`)💦


テキストは、

三能変の階層システムにはじまり、五十一心所を列挙、識所変の経緯に、三性三無性、修行段階(5つ)の説明、と続きます

三無性は、三性にたいしてとるべき姿勢と、その理由根拠になっています。業を浄化しうる理論はこのあたりがクライマックス

じぶんのことを一番よく知っているのは自分だけだ。自分が最もじぶんを知らないのが判るのもじぶんだけだ。

それぞれが異なるトラウマを深くかかえていた時、ひとりひとり別個の内面にあわせて適確に癒やす可能性(釈迦がそうしたように)に気付き、既存の一派に理論的な反旗を翻した。大悲を根となし、医王の目には . . 臨床の知ルネッサンス、世親と呼ばれるゆえん 直接診られるのは自身だけだがそのかわり、深く深くどこまでも。

玄奘が命を賭して求めたのはこれだったのか、と
般若心経は先入観のすべてをリセットして魂を入れかえる。でも臨床の辞世のひとでもないかぎり、奥深くに染み付いて洗い流せないものもある。永く修行を続けてゆく覚悟に満ちた表現であると思います

所謂
医者の正養生。出世道ハンドブック なり . .