・当事者でさえも 「緊張する」問題

 

 

先日ウーマン村本さんの記事を書かせていただき、とあるブロガーの方からリブログを頂戴いたしました。

 

ウーマン村本さんの広島朝鮮学校での独演会と、悲劇のヒロインになりたい訳ではない話

 

そして、同時に「自分たち自身」への戒めの気持ちも感じました。

 

無論、この問題に関して、各識者の方々が建設的議論をされることは、「大多数への周知」に繋がりますので、ポジティブな側面での波及は大歓迎です。

 

しかし、一方で「負の側面」が出てしまうのでないかという恐れもあります。

 

たしかに、英語ブロガーのMichikoさん(拙ブログ・アドバイザー)がおっしゃるように、『問題の当事者』でなければ、「その心情」まで語るのは、あまりよろしくないと思います。

 

問題を『喜劇』に捉えたり他者であるのに『自分たちが悲劇のヒロイン・ヒーローでない』と判断するのは、筋違いというか、それは「当事者(在日コリアン)」の方々が、それぞれの「個人的範囲の認識」として語れる問題だと、私は思うのです。

 

つまり、だれも「在日コリアンの総意」として語れる存在はいないのです。

 

また当事者でさえも、絶えず葛藤の中にあります。

 

私の在日コリアンの友人は、拙ブログを執筆するに当たって、数多くの資料翻訳協力をしてくれ、いつも感謝をしているのですが、彼自身とて「(二人でブログ活動をする中で)これで良いのだろうか?」という、モヤモヤした気持ちを、常に抱えております。

 

『朝鮮学校』に関する漫画やイラストも、彼自身の「通過した経験」(感情移入ができるから)として描いたり時には「暴走したり」して関係者の方々にご迷惑をかけているのではないか、もしかしたら、すでにアウトなんじゃないかと、絶えずおびえながら、それでも止められない「自分自身のアイデンティティ」として、言葉では表現できないほど『複雑な状態』にあるのは確かです。

 

当たり前のことですが、私自身とて「完璧ではない」し、日々のブログ活動で、必ず不備や粗が出てきます。大切なことは、そうした性質を常にはらんでいるのだという心がけというか、記事をひとつ書くにせよ、自分自身で限りなく資料を集め、見聞を収集し、毎回マックスパワーで書くことだったり、『目の前の現実』は、絶えず自分の認識を「はるかに超える存在」として、それは国内外とわない社会問題歴史政治だったり、ひとたび「(自分の経験や頭で)この問題は無理だな」と思ったら、その問題に精通される方がいらっしゃらなければ、私は無言を貫き通すでしょう。

 

 

<参考資料>

 

・お餅と떡(トック)の間に生きる人達(抜粋版)100年以上日本に住む、在日韓国人・在日朝鮮人のお話 『ウーマン村本さんの広島朝鮮学校での独演会と、悲劇のヒロインになりたい訳ではない話』記事

 

https://ameblo.jp/omotitotokku/entry-12576950598.html

 

・Cluttered talk blab blab blab 『非当事者がマイノリティ事情を語るという場合は、細心の注意が必要』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12577082070.html

 

 

<ツイッター>

 

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