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‐東アジアの今とこれから その23(人は追い込まれたときに「本性」が出る)‐
日本共産党中央委員会 渋谷区本部ビル (Wikiより)
日本は満州事変を機に、中国への『侵略戦争一色』に染め上げられて行きますが、今回も引き続き、共産党や一般市民たちの反戦活動を見ていきたいと思います。
1931年9月末、軍事経営の最大の中心地━東京と横浜━における労働者たちの闘争は、開始された帝国主義戦争反対を、「大衆レベル」にまで引き上げるために、さまざまな団体が参加しました。
金属労働組合、および化学労働組合の各支部を先頭として、東京や横浜の工業地方のリベラル的大衆組織の会議が開かれました。
立石および山田絹織物工場の労働者は、反戦デモを準備したが、警官に30人の労働者を逮捕されたり、10月6日には一光学工場、一ゴム工場、一印刷所および二ヵ所の職業紹介所で、『満蒙戦争反対』『満州と中国から手を引け』『日本帝国主義政府打倒』『軍事費で失業者を救済しろ』などのスローガンを掲げ、工代会議を開きました。
10月初め、和歌山の染色工場では、労働者が反戦ビラをまき、青森県下では反戦スローガンの下に、缶詰工場で職場大会が開かれ、二つの工場と三つの印刷所で工代会議が催された。
こうした闘いの例は、各地いたる所でありました(青木文庫版 『日本にかんするテーゼ集』所収 『日本の情勢と日本共産党の任務』)。
殊に、広島での反戦活動を、当時、共産党広島地方委員準備会で活動していた古末憲一氏の証言(『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 三三八頁以後)を参考に、話を進めていきたいと思います。
※古末健一氏の詳細について (日本共産党 加須市議会議員 小坂とくぞう氏のホームページより)
http://www.yuiyuidori.net/t-kosaka/html/menu4/2016/20160715161222.html
旧宇品港から戦地へ向かう兵士たち(1937年8月撮影、広島県立文書館提供)
『中國新聞 広島平和メディセンター』 「宇品港」記事より
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=20131002150013527_ja
1936年、宇品港からの出兵。右端奥に見えるのが宇品島、左端が軍用浅橋(個人蔵)
『同』 「宇品港 軍用化の記録 広島市郷土資料館 1日から公開 全景や出兵の写真・文書」記事より
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=80603
※宇品港は1932年に「広島港」へ改称。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=80603
古末氏によると、広島の宇品港から、毎日のように日の丸の旗をたてた御用船が、若い現役兵を満載して満州に向かったとされます。
宇品、広島の旅館は、出征兵士でいっぱいになり、全員が入りきれず民家にまで分宿しました。党員や全協組合員は「満州の戦争は資本家地主のため(所謂権力者たち)の侵略の戦争だ。労働者、農民、兵士がその犠牲にされるのだ」という趣旨で、戦争反対を呼びかけるリーフレット(宣伝用の折り畳み式の印刷物)、ビラ、パフレットをつくり、マッチ箱に入れたり慰問袋に入れて兵士に渡したり、兵士の泊っている旅館や宿舎に投げ込んだりもした。
さらには、連隊に忍び込んで兵舎に持ち込んだ人もいたり、憲兵に見つかったら大変なことになると思いますが、そこは本当にすごいと思います。
この中で、広島第十一連隊の兵士数名との連絡がつき、この兵士らは兵営内で反戦ビラまきを行い、後に、この兵士たちは共産青年同盟に組織されたそうです。
反戦ビラは、もちろん工場にもまかれ、当時のプロレタリア作家同盟を中心に、『無産者の夕』と銘打って、戦争反対の大集会もやり、1000名近い労働者、学生が集まり、集会のあと警官隊の人垣を突破し、数百名が目標地点まで反戦デモを敢行しました。
続いて書(『同』 三三八頁以後)は、呉での反戦活動をしていた、同党広島地方委員準備会の寺尾一幹氏の証言へと移ります。
※寺尾一幹氏の詳細について (戦前の反戦運動の具体例 「あめとかぜと 広島県戦前 左翼運動の手記」 岩佐寿一 編・著 あめとかぜと出版委員会発行 1985年 記事より)
http://kure-sensai.net/Undou/Senzen/AmeToKaze.htm
日本帝国海軍の根拠地、広島の呉(くれ)では、当時まず呉海軍工廠(こうしょう=陸海軍に直接所属して、軍需品を製造する工場)に、共産党細胞がつくられ、やがて昭和6年末(または7年はじめ)、日本共産党史上初めての「軍艦細胞」が結成されました。
つまり、「日本軍内部に反戦活動を行うリベラリストが誕生した」わけであり、これはものすごい大偉業と言っても過言ではないと思います。
軍艦細胞の党員は、反戦ビラやリーフレットを艦内に配布して活動しましたが、この他に新聞『そびゆるマスト』を発行し、水兵の要求とあわせて戦争反対を訴えました。
新聞は40部ぐらいずつ、第六号まで発行(編集・印刷、寺尾氏)されましたが、すぐさま弾圧によって潰されました(古末氏、寺尾氏の話とも筆者<同書>の聴取)。
所謂、「軍隊内の党員」は士官学校などにも増えていきましたが、呉とならんで横須賀でも「軍艦細胞」が作られた。
戦艦『榛名』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%90%8D_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
当時、横須賀の軍艦榛名の水兵だった西口常二氏は、『月刊学習』(63年7月号)に、その思い出を、以下に示しております。
私たちは、昭和7年1月10日、横須賀海兵団に入団しました。・・・・・・私たち入団者が乗った横須賀行軍用列車が、憲兵の厳重な監視のうちに、品川駅発射を待っていた時に、突如、どこからともなく、党の反戦ビラがまかれました。列車が横須賀駅に到着したときも同様でした。
いうまでもなく、共産党員の決死の行動であったのです
時代も時代ですから、捕まれば党員の身の危険だって、十分にあり得るわけです。
戦艦『長門』 (同)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
戦艦『山城』 (同)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
同『思い出』によると、党員は、天皇のお召艦であった、前述の高速巡洋戦艦『榛名』をはじめ、戦艦長門、戦艦山城につくられ、横須賀鎮守委員準備会を確立しました。
党員は反戦ビラと共に、新聞『高いマスト』を艦内にもちこんで、反戦活動に努めました。
後『高いマスト』は、陸海軍兵士すべてを対象とした『兵士の友』と改め、さらに日本共産党満州地方事務局では、9月21日『中、日、鮮(朝鮮)━労働者農民兵士の力に依って帝国主義強盗戦争を打ち倒せ!』と訴える多数のビラを各地にまきました。
それには、『中国・日本・朝鮮の労働者農民兵士が提携して、互に向けあってゐるその銃を真の敵自国のブルジョアジーに向けるのだ』(中国の反動勢力や日本および植民地朝鮮における権力者層への批判)など、『日本帝国主義を打ち倒せ!』と書かれていました。
無論、これらは中国侵略戦争に反対する、当時の闘争の一端を示すものです。
共産党の党員数は、1931年から2年にかけて「戦前最大」となり、『赤旗』発行部数も同様に7000部に拡大しました。
<参考資料>
・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房
・日本共産党 加須市議会議員 小坂とくぞう氏のホームページ
http://www.yuiyuidori.net/t-kosaka/html/menu4/2016/20160715161222.html
・『中國新聞 広島平和メディセンター』 「宇品港」記事
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=20131002150013527_ja
・『同』 「宇品港 軍用化の記録 広島市郷土資料館 1日から公開 全景や出兵の写真・文書」記事
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=80603
・戦前の反戦運動の具体例 「あめとかぜと 広島県戦前 左翼運動の手記」 岩佐寿一 編・著 あめとかぜと出版委員会発行 1985年 記事
http://kure-sensai.net/Undou/Senzen/AmeToKaze.htm
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