※前回の記事『‐辛淑玉文書を読む その5‐』(https://ameblo.jp/epikutetosu/entry-12334655432.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----epikutetosu_12334655432)

 

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文書はいよいよ後半になります。

 

やはり信用というものは恐ろしいものであって、それまで「正しい」と信じてきた人たちの前で、一つの大きな過ちを犯し、その対処をおろそかにしていることが明らかになると、一挙にすべてを失うのだということです。

 

もちろんマイノリティの当事者や、マジョリティの支持者であろうとも、両者の属性関係なく、このような「失態」を見せつけられては、おのずと人は離れていきます。

 

 

そんな中、文章を読み進めていくと、辛淑玉氏界隈の「世界観」がどのようなものか、彼らは自分たちの行いを、在日社会とっての「光」「希望」「生きていくための酸素」と称し、ある種、強引に一般化した抽象論そのものです。

 

さらには、李信恵氏の姿を過剰に「脚色した」上で、「壊れながらもがいて生きてきた在日の女そのもの」などと、正直この記述にはびっくりしてしまいました。

 

きっとご自身の活動に没頭するあまり、「本当の在日社会」がどのようなものであるかわからなくなり、まるで自分たちが、その社会の行く末を引っ張っていく「牽引者」であろうとする立場には、傲慢と驕りが生じているのではないかと思うのです。

 

 

在日社会というものは、数が少ないとは言え、本当に多種多様の人々で構成されています。

 

ひとえに「総連社会」「民団社会」その外縁で生きる人々日本人に帰化して身も心も「同化」してしまった人たち、語ればキリがないのですが、とにかくそのような重層的な認識で折り重なったものであり、辛淑玉氏たちが理解するようなものでないのは確かです。

 

きっと本人たちも知っているでしょう。

 

しかし自分たちの組織や、運動目的を達成するためには、そうしたものを無視して、ひとつのカタマリに括って己の正当化をおこないます。

 

私は、そのような価値観では物事は上手くいかないと思います。

 

 

差別問題は普遍的問題であり、同時にものすごい複雑性を内包しているのが事実です。ゆえに、各人が容易く理解し扱える問題ではありません。私自身も、つたなくも5年間アンチレイシズムのブログを運営して、未だに己が無知であることに恥じ続けています。

 

辛淑玉氏は、李信恵氏の裁判で「信恵が美しい被害者ではなくなる」とおっしゃられ、逆にそれまで「美しい被害者」だったのか、人間が人間でいるかぎり、「汚いもの」と決別することは不可能であり、自分たちでハードルを上げて、間違った論理設定のもとで運動をおこなってしまったのではなかと思います。

 

そして、李信恵氏に対する「社会的リンチを加えようとするもの」として、ネトウヨは論外のもと、この問題を適切に取り扱おうとする人たちの言動までシャットアウトしてしまっては、問題の解決にはなりません。それは「悲壮な歴史」設定のもとで、運動をおこなう必然的性(さが)なのかもしれませんが、これは運動を行う人たちや、それを支持する人たちにしても、とても負担がかかることです。

 

 

文章の後半で登場する、加害者側であるB氏についても、辛淑玉氏は言及しており、私が彼がどのような人物かは知りませんが、「組織」や「学校」も機能しなくなった在日社会の中において、一個人である彼を、その社会の受け皿のように持ち上げ、「在日全員集合」などと、笑わせてくれるなです。

 

そうやって自分たちを過度に「美化」して、本当の意味での在日社会の「多様性」を無視して、その代表ヅラをする。蚊帳の外の人たちからすれば、勝手に自分たちの上に立つなと思うでしょう。

 

もちろん、これは「組織」を統率する側の、辛淑玉氏ご自身の苦悩であり、「加害者」「被害者」とも邪険にできない縛りそのものでしょう。

 

 

しかしながら、それを見る社会一般の認識としては、「あなた側の都合」よりも、より普遍的な問題に目が行きます。それは被害者Mさんへの状態だったり、ダブルスタンダードを余儀なくされる辛淑玉氏への眼差し、その他界隈の人たちや、日本のリベラル全体に向けられる事態へと発展し、色々な人々を巻き込んだ深刻な問題へと移り変わっていくのです。