-「国民」の認識が絶対なのか(民主主義の陥穽について考える)-


先の『かっちん』さんのブログからの引用ですが、『朝鮮学校無償化問題』において、しばしば取りざたされるのが、「除外」の根拠とされる日本国民の「北朝鮮」に対する認識です。


中日新聞の社説の中で「北朝鮮は核やミサイルを開発し、日本人拉致問題の解決には後ろ向きだ。朝鮮総連を含め、国民が注ぐまなざしは厳しい」とされていました。


そもそも、如何なる認識があろうとも、本来、子どもの教育に政治的、外交的な問題を絡めるべきではないというのが当たり前の事実ですが、引用社説の中で「朝鮮学校の教育内容や財務、人事といった運営を巡る疑念が晴れない限り、税金投入に国民の理解は得られにくい」と示されていました。



ここでいくつかの疑問が生じます。


当該新聞は「国民の税金」と言っておりますが、在日コリアンやその他の外国人含め、日本国で生活し、仕事をする全ての人々が「納税者」であり、まるで「日本国民」だけがその代表とされるのが間違いなのです。


だから平等に「権利を主張」する資格はあるし、そもそも前国家的権利である人権は、そうしたものを超越するものですが、しましば「国民感情」というものが我先にと出て来て、さも正論のごとく「世の中の常識」として居座ります。


またさらに付け加えると、「北朝鮮は核やミサイルを開発している」という指摘も、アメリカの対朝鮮圧迫政策に対する「回答」と捉えることができますし(‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その7(朝鮮統一問題の国際的側面と日本②)‐ https://ameblo.jp/epikutetosu/entry-12292346250.html )、「北朝鮮は独裁国家だろ」という指摘についても、同じ「独裁国家」である中国の中華学校も無償化対象とされている事実とも矛盾します。


おまけに「日本人拉致問題」に関しても、過去に朝鮮を植民地化し、南北ともども多くの朝鮮人を日本に連行し、さまざまな人権蹂躙や虐殺、強制労働に従事させた件と衝突し、殊に北朝鮮については、前述の内容における「謝罪」や「賠償・補償」も一切行われず、日本の被害者神話の「正統性」を失わせます。



この一連の事象について、一種の「固陋な感情」ともいえる日本人の「北朝鮮観」は、アメリカ人の「銃」に対する認識と重なり、どんなに銃によって人が殺されようとも、「銃は神が与えた宝物である」という感情から抜け出せず、今なお圧倒的支持のもと「絶対なる認識」として君臨していることです。


こうした非合理的で幼稚ともいえる感情が、仮に「少数なら」単なる雑言として切り捨てられますが、なぜか一定数の「支持」を取り付けると、正論としてすり替えられ、さらに数を募れば「絶対的認識」「神なる認識」として神聖視されることです。



<参考資料>


・『かっちんブログ「堅忍不抜」』「朝鮮学校<広島無償化裁判>各新聞の社説より」記事より