『猿まね』(風刺画) ピゴー 作



前回は終わりに明治天皇の『皇帝化』について論じました。


これについては、改めてシリーズ化した天皇論について述べたいと思います。



近代日本が血眼になって『アジアの皇帝国』になることに腐心し、そのためには「近代化」という契機を利用し、素では太刀打ちできない清国を打倒しようと、完全に西洋の科学文明を自身に移植・完全模倣をすることでしかそれを成就できないと認識しておりました。


こうしたプロセスを一体誰が思いついたのかと申しますと、近代に日本の政権を取った集団。明治政府という、天皇を頂点とする中央集権制君主国を打ち立てた「薩長の下級武士たち」や、その裏で指導した「平田国学系の神道学者たち」です。


この詳しい叙述は、-シリーズ『オリエンタリズム、名誉白人、薩長日本』1- -シリーズ『オリエンタリズム、名誉白人、薩長日本』2- にあります。



今回は、安重根が先の「15の罪」を挙げて伊藤博文を殺したと法廷で堂々と主張しましたが、裁判の内容はすでに決定済みであり、宣告は「絞首刑」。これは裁判を開く前から当時の外務大臣・小村喜太郎が裁判所の長官となって、安重根を必ず処刑せよという命令の電報を打ちました。


安重根はそういう不条理の中、裁判官の質問に対し「確かにピストルは発射しましたが、その後のことは知りません。それは三年前から、私が国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として計画したのであって、そもそもこの法廷の公判廷で取り調べを受けるのは間違っているのです」と答えた。


彼の伊藤殺害は、単なるテロリストとしてではなく、義兵中将として実行したのであり、独立のための祖国防衛(自衛権の発動)の義兵闘争の一端であることが自覚されていました。


しかし、この申し立てに真鍋裁判官は耳をかそうとはせず、殺害の事実だけを問い続けた。


すると、安重根はこのように答えました。


「喫茶店でお茶を飲んでいると列車が着き、それと同時に奏楽があり、兵隊が敬礼するのを見ました。私はお茶をのみながら下車するところを狙撃しようか、または馬車に乗るところを狙撃しようかと考えましたが、一応様子を見てみようと思い、出てみました。ところが伊藤は汽車から降りて多数の人と共に領事団の方に向かって兵隊の整列している前面を進んでいきましたから、私はその後の方を同じ方向に進みましたが、それが伊藤であるか見分けがつきませんでした。」


つづけて、


「だがよく見ると軍服を着たのはみなロシア人で日本人はいずれも私服を着ていまして、その中の一番先に進んでいくのが伊藤であると思いました。そして私がロシアの兵隊の列の中間ぐらいのところに行ったとき、伊藤はその先にならんでいた領事団の前から引きかえしてきました。そこで私は兵隊の列の間から中に入って手を出し、一番先に進んでいる伊藤と思われる者に向かって三発ばかり発射しました。それから後方にもまた私服を着た者がいましたから、もしやそれが伊藤ではあるまいかと思い、それに向かって二発発射したとき、私はロシアの憲兵に捕えられました。」



ここの後半部分はどのようにして伊藤を射殺したかということを語っているのですが、前半の言っていることが非常に重要なのです。


つまり、日本はロシアから安重根を引き取って裁判にかけたのですが、殺人犯として裁判にかけたのです。


これは2013年11月19日の『朝日新聞』に出ているのですが、韓国が安重根義兵将が伊藤博文を射殺したその場所に記念碑を建ててくれということを中国に頼んだ。中国もわかったというので記念碑建設の準備が進みつつあるという状況です。


それに対し、菅官房長官は記者会見で「わが国は安重根は犯罪者だと韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならないと述べ、強い不快感を示した。つまり、犯罪者で殺人犯だから記念碑を建てるのは不愉快だ。ということを言っていました。


これは戦前の価値観に基づいた、日本至上主義による相手国の抹殺やその主張を一切認めないことを意味し、本来ならば戦後政府、民主的価値観を持った人間ならば当然として省みなければならないことですが、安倍政権による『戦後レジームからの脱却』を称した「日本独自の思想」、誇りあるアジアの『皇帝国』として傍若無人を振舞うために朝鮮の自衛権を否定し、なすがままの植民地主義を持ち出して、大韓国の義兵として戦闘行為をおこなった安重根をテロリスト扱いする始末です。


もはやそこには自由主義や民主主義の観念はなく、「ナメられたら終わり」という喧嘩レベルの簡素な認識しかない、哀れな『帝国政府』たる日本しかないのです。