遍路道「日韓友情」への中傷



現場から 2014衆院選➄


(1面から続く)



外国人を排除し、攻撃する動きが身近なところに広がりつつある。


「礼儀しらずな朝鮮人達が気持ち悪いシールを四国中に貼りまわっています」


世界遺産入りを目指す四国八十八ヶ所の遍路道で今年4月、こんな中傷ビラが貼られていたことが発覚した。遍路に魅せられた韓国人女性が貼った韓国語の道案内シールが標的とされた。ビラはすぐにはがされたが、余波は続く。


香川県三豊市に11月、「遍路小屋」ができた。建設の中心になったのは、中傷ビラで攻撃された韓国人女性。日本や韓国などの遍路仲間から寄付を集めた。お茶の葉を模した屋根に、10人も座ればいっぱいになるベンチ。国道沿いにできたささやかな小屋は「日韓友情のヘンロ小屋」と名付けられるはずだった。地元紙などに6月、小屋を建てる計画の記事が載ると、三豊市役所に抗議の電話8件、メール17通が届いた。「この国を韓国にするのか。香川終わったな」「一つ許せばどんどん汚される」。ネット上の掲示板には、似た数千件の書き込みが躍った。



非難を受けた後、小屋の名は「ヘンロ小屋茶処みとよ高瀬」に変わった。


屋根に建設されていた鳳凰の模様も、地元から「韓国風だと思われれば、トラブルになってまた人を傷つける」との声が上がり、取り外した。小屋を設計した建築家の歌一洋さんは「心ない批判に対して敏感になりすぎる必要はない」。たが、市職員は「一体どのくらいの割合の人がこう思っているのかわからない。だから怖い」と語る。



徳島大の桶口直人准教授(社会学)はこの数年、数はごく一部だが、他民族に対し排外主義を主張するリポートを提出する学生が出てきたことに社会の変化を感じる。



「民族問題を考える」という1年生向けの授業。指定図書の感想に、ある男子学生はこう書いた。


「在日韓国人のアイデンティティーは多様だ。ただ最近は反日的なので、在日外国人は日本から出て行ってもらうしかない」



桶口准教授は「本で多様性を学んでも、真面目にネットで調べるほど、すぐに誤ったネット情報に戻ってしまう」。無関心な人がネット検索を繰り返すうちに、自然と排外主義的な情報に接してしまう状況を懸念している。



在特会の立ち上げ当初から会員の横浜市内の男性契約社員(40)が10年ほど前、韓国に関心を持ったのはネットだった。「日本の自虐史観を憂う」と書かれていた。「歴史の勉強は暗記ばかりだった。サイトを見て、自分の頭で考えることができるようになった」と話す。


在特会の過激な方式には抵抗を覚えるが、「ヘイトデモをされる原因は在日朝鮮人にある。我々日本人の方が被害者」と主張する。2009年ごろ、当時住んでいた川崎市で市民団体を立ち上げ、外国人参政権付与に慎重に対応することを地元政治家らに訴える。



取り次ぎ大手のトーハン発表の「年間ベストセラー」は新書・ノンフィクション部門1位が、「これでもまだあの国につき合いますか」と帯をつけた「呆韓論」。


閣僚が在特会の元幹部と写真撮影していたことが発覚しても、国内に大きな批判が起きることもなかった。


在特会を取材してきたジャーナリストの安田浩一さんは言う。「生活保護を受けている外国人は国へ帰れ、という言葉を著名人らが平気で口にする。差別や偏見を助長する土壌が社会に広がっている」


(守真弓、高橋末菜)




前回に引き続き、京都での在特会ヘイトデモや関連するヘイトクライムの事件を辿っていくと、たとえば香川県での事件について、ネトウヨの抗議の手法は100人の連中が100回抗議すれば「10000人分の抗議」になって、トラブルを避けたい役所としてはその見かけに驚いて相手の要求を度々呑んでしまう場合が多いのです。在特会の設立当初においても群馬県の朝鮮人慰霊碑の撤去を求めたり、さまざまなロビー活動をすることによって圧力をかけてようという活動が主体でした。


記事中にある「数千件の書き込み」にしろ、少数のネトウヨは一日中ネットに張り付いて工作活動に勤しみ、ヤフーの統計やコメントもIPをたどれないので何度も投票が可能であり、他にもさまざまな「多数派工作」ができます。



また伊藤先生がおっしゃる事として、『在特会・ネトウヨの苦手は司法なのでは。 』にて世間はその時勢の空気に左右されやすく、そこから考えると役所も例外ではなくて、全体が右傾化すればそれに従わざるえません。そうした観点からしても、「正しいこと」を実行するに難しく「抗議した者勝ち」の論理でネトウヨや極右の思惑通りにいってしまうのです。



次に、徳島大の桶口直人准教授(社会学)の話にいくと、『民族問題を考える』授業で男子学生が「在日韓国人のアンデンティティーは多様だが、最近は反日的なので出て行ってもらいたい」という趣旨の内容ですが、これが国立大学生のレポートとしてはあまりにも幼稚としかいいようがなく、そもそも『民主主義国家』の公理から導き出される社会構造において、気に食わない出自や思想、また自己の一方的な思い込みで他者を追い出そうとする行為は、それこそ「思想信条の自由」や「表現の自由」の侵害であり、人倫的見地からしても、憲法の規約からその国に住むあらゆる国々の人にも人権は拡大されることを知らずしての暴論でしかありません。


またそれ以前に、この男子学生はどうも勘違いをしている。本来『在日コリアン』と定義すべきところを「朝鮮人」を排除した「韓国人」だけの項目にしか目がいかず、そもそも歴史的に見たら韓国や北朝鮮が成立する以前に、戦前の植民地支配によって生み出された在日コリアンは、旧植民地朝鮮からくる『在日朝鮮人』というくくりの方が正しいのです。


これは在日朝鮮人の歴史が専門である、 明治学院大学 教養教育センター准教授 鄭 栄桓 さんがおっしゃれることです。



どうやらこの男子学生は、「本で多様性を学んでいる」段階とはいえず、それすら誤読と曲解をして『反日』というひとつのくくりにまとめてしまう、そしてこの『反日』という言葉は、極右やネトウヨたちが自分たちの気に食わない相手を黙らせ支配するものとして盛んに用いられ、なによりも、「生の経験」がひとつもない日本の学生が在日コリアンの歴史を学ぶことは容易ではなく、実際の人たちと会って会話をし、そこではじめて「在日コリアン」との接点というものが出来て、あわよくば実際に朝鮮学校や韓国学校、その他の在日コミュニティーに身を置くことによって、はじめておぼろげながらの理解ができるのです。


ゆえに、元から何も知識のない者が、そこらの本をひとつ読んだところでわかるはずもなく、葛藤と苦悩の連続であった「在日コリアンの経験」とはまったくかけ離れた彼岸の地にいる我々日本人にとって、何一つ差別や不自由なく育ってきた「温室育ち」であるがゆえに、その「断絶」は凄まじいものがあります。



何度も述べますが、これを「乗り越えること」は容易なことではなく、我々日本人としてはマジョリティの社会で『ひとつの文化』(モノカルチャー)でインプットされてきた思考回路で在日コリアンをいち早く理解するためには、私たち自身が実際に一人で海外で暮らし、そこでさまざまな迫害や差別に会ってはじめて「マイノリティの断片」をいうものを獲得でき、それを知性や想像力をもってして昇華させ、ひとつの認識として確立することができます。ゆえに私自身も、まだこの道半ばにいます。



この男子学生の他にも、『のりこえねっと』の共同代表である辛淑玉さんが、とある大学でヘイトスピーチの動画をもとに講義をされたところ、それを見た学生たちが「日本人には、朝鮮人を出て行けという権利がある」「こいうふうにやられるんだから、やられるなりの理由があるはずだ」として、辛さんが他の女子大に行かれたときも、出された感想文はほぼ同じかたちで、冒頭に「とても同じ日本人とは思えない。こういうことやるのは、韓国人か中国人かでしょ」というもので、それは前述にある「圧倒的経験不足」からくる「根本的無知」が起因して、実際に在日コリアンと会っていたらそんな回答は絶対にないだろうと思います。


私の在日コリアンの友人は、中学校のころに家庭教師の人に勉強を見てもらっていて、その先生は「北朝鮮」とは呼ばずに「朝鮮」と呼び、拉致問題が冷めやまない当時の日本人としては極めて先進的であり、実際にとても聡明で人間的にもたいへん優れた方だと聞きました。


そしてそこには『在日コリアン』との「生の接点」があり、大学時代に在日朝鮮人のお友達がいらっしゃったのです。




最後に、在特会立ち上げ当初から会員の横浜市内在住の男性契約社員(40)の話に移りますが、彼は10年ほど前にネットで韓国に関心を持ち、「日本の自虐史観を憂う」という内容のブログに嵌まり、「歴史の勉強は暗記ばかりだったが、このサイトでは自分の頭で考えるようになった」として、実際は歴史の「れ」の字も理解できておらず、単なる自分の気持ちのいい歴史観に浸る『直感補強主義』に陥っています。


そしてやはり彼も、「ヘイトデモをされる原因は在日朝鮮人にある」として「我々日本人が被害者」という立場に話をもっていき、私の推測としては「『反日在日』は日本の癌」といったネトウヨ特有の発想で、一方的に他者を理解したつもりなのでしょう。



まったくもって哀れなことですが、こうした人々は意外に多く、私自身も歴史を勉強する中でこの学問がとても複雑かつ難解で、深い認識を必要とする「いち専門科学」として、そうした前提があるこそ『歴史学』として存在できるのだと改めて実感しました。そうしたプロセスを経ないで、歴史学の本質を知らない者が衒学者を気取ってネトウヨ史観に染まるようならば、それはもはや歴史とはいえず、単なる妄想の産物でしかないでしょう。



長くなってしまいましたが、『知性』とは本来なんなのか、その私なりの答えは「知」と「経験」の融合であり、その二つの両輪でもってはじめて存立するのだと思います。


どちらか片方抜けてもいけないし、それらが円滑に混ざり合うことによって成り立つのだと感じます。ゆえに本を読むにせよ、ただ読むだけでは駄目で、実際にある物事の存在を自分の目で確かめながら少しずつ進めていくのです。


在日コリアンの問題にしろ、そこにいる人々とのたしかな交流があってこそ、本来の理解につながります。




次回はシリーズの総括といきたいです。