前回の『-極右・ネトウヨを破砕する愛すべき知性の話 その1- 』 記事のおさらいとして、ポパーが説いた「反証主義」は、ある仮説があればそれがテストによって「反証」される危険性のある予測こそが「科学的」な仮説であり、何でもうまく説明できるような理論や言説は、実は「科学的でない」のです。



ここである『怪しい占い師』を例に、実際の話を交えて具体的に説明していきたいと思います。




ある占い師が相手に「今日は最高にラッキーな一日です」と告げたとします。


ところが、その日は朝から大雨であなたのスーツはずぶ濡れになり、風邪をひいて熱と咳がひどく仕事中にはミスを連発して上司に怒鳴られ、夜のデートに遅れたことから彼女と大喧嘩になり、帰り道には走行中の自転車にぶつけられて腕を骨折したとします。



これはあまりにも不運の連続です。


そしてその人は、後日占い師に向かって「あんたの占いは大外れじゃないか」と言います。



しかし占い師は、「いえいえ、私の占いは大当たりでした」と答えました。


もしかしたら占い師は、あなたがラッキーだったからこそ肺炎ではなく風邪で済んだのであり、大事故にならずに腕の骨折で済んだのだと答えます。つまり、あなたの数々の災難は「不幸中の幸いだった」と主張できるわけです。



これは苦し紛れの言い訳ともいえますが、たとえばその人が自転車ではなく自動車にぶつけられて重症になっていたら、占い師は何と言うつもりでしょうか。


それはきっと「死亡するよりはラッキーだったでしょ」と答えるに違いありません。



こんな腹ただしい占いはあったものではありませんが、もし「死んでいたら」占い師はどう答えるのでしょう。


そうなると占い師は、「死亡してラッキーでした。生きていたらもっともっと苦しむ結果に終わっていたでしょう」と答えます。




要するに、占い師は実際のその人の一日がどんな結果に終わろうと、あくまで「今日は最高にラッキーな一日です」という占いが「当たった」と言い張ることができるのです。


逆に言えば、この占い師の発言は最初から「反証不可能」なのです。


これは先にネトウヨが、ネットの中の差別的な書き込みはみんな朝鮮人がやっている」「朝鮮人は奸悪なのでやった証拠を残さない、証拠がないことが朝鮮人がやっている証明になる」とか、証拠がないのが証拠」「絶対に陰謀がなかったことを証明せよ」という論法と構造は同じです。



何度もいうように、上述のものは全て「反証不可能」な発言であり、いかなる事例も都合よく自己理論の合致例とみなしていることが問題なのです。その意味では、何が起ころうと「当たった」と言い張る占い師と「朝鮮人の陰謀」を流すネトウヨは同じ立場なのです。



総じた結論として、ある理論や言説を証明したければ、リアルな社会的実像を背景にした科学的見地によってテスト可能な「反証できる」ものでなくてはいけません。そうでなければ、単なる「疑似科学」か切って捨てるべき「デマ」に過ぎません。




その「反証主義」の審判を真っ向から受けて、見事厳然たる科学理論として君臨した例は、アインシュタインの『一般相対性理論の重力場方程式』における、太陽の重力によって空間の歪み生じることから、太陽の近傍で観測される恒星の位置がズレて見えるに違いないと予測して、1919年当時ドイツと敵対関係にあったイギリスの天文学者アーサー・エディントンが、南半球で起きた皆既日食中の恒星の位置を観測し、それが見事にアインシュタインの予測どおり1.75秒角ずれていることを確認したのです。


結果アインシュタインの予測は、観測によって覆されるリスクを背負いエディントンの実際調査によって確実なる理論になりました。反証という手続きをもって仮説は証明されたのです。



日夜、科学者やその他社会/人文の学者たちは、自己理論を反証するだけのリスクを背負った予測を生み出さなければならず、リスクなく「後出しジャンケン」のように何でも説明できるような理論や言説は、最大の嘲笑と侮蔑をもって反証主義の剣で切り裂いてしまいば良いのです。



ゆえに知性から最も遠い未開人の極右やネトウヨたちは、大いなる窮地に立たされているのです。




今回のシリーズ記事、『-極右・ネトウヨを破砕する愛すべき知性の話 その1- 』『-極右・ネトウヨを破砕する愛すべき知性の話 その2- 』と『-「反日」の淵源- 』を合わせたものは、『-「反日」というお守り言葉- 』の前提記事となっております。




〈参考文献〉


・『知性の限界〈不可測性・不確実性・不可知性〉‐ファイヤーベントは警告する‐理性よさらば!?』 高橋昌一郎 著 講談社現代新書