昨日日曜日の、テレ朝ニュース番組における、黒鉄ヒロシの韓国罵倒を含め、日本のマスコミたちは、ボロクソな口調で、韓国叩きに躍起ですが、自国の悲惨な原発事後の隠ぺいや、六ヶ所村の放置、反対者の粛清、その他すべての悪徳(原子力マフィア問題)など、人類を破滅に落とし込む蛮行をおこない、もはや目も当てられぬ状況ですが、「人のことを、到底言えた義理ではない」ということは確かです。



さて、今回は前記事に引き続き、黒鉄ヒロシの陥穽をもう少し深く掘り下げてゆくという形で、中華に飲み込まれないことを誇りとした日本と、最も忠実に中華を取り入れた朝鮮。現在まで続く、歴史認識問題の根っこと称する方々が多いなか、はたして本当にそうなのか、日本は徹頭徹尾、中華という意識から抜け出して、日本主義なるものを打ち立てたのか、決してエピゴーネンではないと言えるのか、ということを主眼において、論じたいと思います。



問題は、日本の中華からの、文化の「借りパク」が酷いということでして、あたかも、それを本質主義的に「大和古来」のものと、完全なる中華と自我(日本)の入れ替えが行われていることです。



これは私が、前々から、そして常々思っていることなのですが、所謂「皇族」「天皇」関係の話です。


英語表記で、「Emperor」「当て字」でごまかそうとしますが、前近代以前は、中国を刺激するのを恐れてか、「天皇陛下」とは言わず、「帝」(みかど)という、曖昧な名称で呼び、コソコソとその存続に努めてまいりましたが、東アジアの儒教文化圏の秩序において、たとえば、明に冊封された足利義満は、名実ともに「日本のトップ」つまり「国王」であり、日本王国の統治者として君臨する、唯一の合法的君主でした。


つまり、当時の国際社会における首脳であった、足利義満国王殿下が、朝鮮や中国との付き合いのできる者として、ましてや、非合法の「天皇」なぞ、中国からしたら、どこの馬の骨かわからぬ者が、「皇」の文字を使い、ささやかながら「皇帝」号を僭称するとういものは、到底許容できるものではありませんでした。




しかし、現在まで、あんなにまで「皇」に対する異常な固執をするのか、日本の歴史書を見ても、どうみても本家本元である中国の皇室を「帝室」と呼び、自身の特殊性を主張する形で、日本の国学者や保守系諸氏のひとびとはいちいち「皇朝」などと名称づけて天皇の唯一性を示しますが、所詮は中国の権威から借りた二次的称号に過ぎません。



これは、遊牧騎馬民の「可汗」号のような独自のものと比べて、既存の中国にあった言語概念から拝借した中華ファミリーの落し子としての地位を認めるものでしたし、「皇」自体は中華主義のかたまりでもありました。つまるところ、皇帝天皇も、範疇論的には「中華主義」というひとつの大きな枠組みの中での位置づけであり、それから離脱ものとして反中華主義の遊牧騎馬民族が使用した「可汗・汗」があります。

私は本当に疑問に思う事として、極右の連中は「支那は反中華主義に対する我が国の名称だ」としきりに言い訳します。ならば、なぜその「支那」が生み出した「皇」という文字に固執するのかどうしてもわかりません。


繰り返し言います。それならば「天皇」という古代中国の称号を流用するのではなく、一から自前の君主号を確立すべきだと思いますね。

まあ現実にそれが無理だったのでしょう、君主号のブランド化においても最終的にはその国家の国力に依存しますから、日本においては島国で周囲に海という天然の要害が存在して、割と安全だったので、少しばかり見栄を張って中国の「皇」文字を使って独立を意識したかったのでしょう。

まあしかし結果はあまり芳しくなく、仲間内しか通用しない名ばかりの「自称皇帝」であり、事実上の僭称と位置づけられて、本家の中国は完全無視、また貨幣においても平安時代末期に、「皇朝十二銭」という日本独自の通貨を鋳造しましたが、これがいかんせん信用がなくて、当時の基軸通貨であった宋銭に駆逐されてしまいました。


さらなる確証を得るべく、専門書をひも解いて、


「江戸時代における儒学者たちの中国古代認識として、唐から輸入した律令体制はやがて形骸化し、その『形』は江戸時代の幕藩体制を支える理念として活用された。


藩の大小は中国古代の都市国家の大小であり、そうした藩に生活の糧を得た儒学者たちの中には、日本を日本と呼ぶのではなく『中国』と呼ぶ者もいた。


律令時代にできあがった日本特有の中国・夷狄観を復活させて言う。


山鹿素行・浅見掲載・佐藤一斉ら藩や幕府から得る儒学者が日本を『中国』と表現した。


律令施行域の伝統が依然として「形」をなしていたからである。


結果的に、江戸時代の儒学者たちは、中国皇帝の大領域を考える学者たちよりは、いにしえの戦国時代の実態に近い環境下に生活していたことになる。」(中国の歴史02『都市国家から中華へ 殷周春秋時代』平勢隆郎 講談社 三九四頁)



と記されており、やはり儒学者ならば、必然と中華文明への憧れや、その思想を、自国へ措定したくなるのはうなずけます。地理上において、現在もつかわれる、「中国地方」「近畿」はその代表例で、後者は「畿内」という関中の皇帝域を表すもので、それを丸ごと天皇の京都や周辺地域に移入したものです。


これだけでも、かなりの「権威の流用」「模倣」が、行われております。

しかるに許せないのは、国粋的国学者や極右連中です。


三皇五帝から「天皇」を引き出して、後の律令制中華大明帝国の「一世一元の制」など、西洋の「近代化」をする以前に、「中華化」という中国文明の核なる部分を丸ごと受け入れています。彼らは、それを自前のごとく主張し、出自もはっきりさせず、いつまでもはぐらかしております。


つまり、この国はある種の「大文明」という作用因がなければ永遠の可能態のままでありましたし、まあこれは、とある文明大国が、周辺の国々を徳化して生かすという、ごく当たり前の歴史的作用で、たとえば中国の漢字文明を引き抜けば日本の文明文化は崩壊します。

それは周辺国、儒教文化圏すべてに言えますし、何も影響を受けなかった、前近代末期までそれに抗い続けたなどというのは、いささか現実と乖離しております。



『古事記』の時代から明治維新まで、漢文は長らく日本の公用語でありましたし、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸時代と、我が国のお役人や知識人たちは正式な書写言語として、漢文ないしは日本語混じりの変体漢文を使用してきました。

そして、その間に大量の漢語がそのまま日本語に入って定着し、今の日本語から漢語を取り去ったら、まともな文章は書けないどころか、片仮名や平仮名さえも、漢字を改良して作られたものに過ぎません。

無論、これが、中国文明の「徳沢」の恩寵であることは間違いありません。



多分漢字が入る以前はなんらかの言語というものがあったと思いますが、漢字に比べるとあまりにも稚拙で素朴であったのでしょう。それが漢字に駆逐され現在まで日本の文明を支えています。


このことは、別に日本が駄目な国だったわけではなく、まことに至極当然のことであった、つまり、中華という優れた文明は、農耕文化圏によらず、騎馬民族にも大きな影響を与え、彼らの言語は、主に古代オリエントのアラム語を起源としておりますが、影響としては、計り知れないものがあります。



そういう中で、朝鮮半島はどうだったのかと、申しますと、地理的状況を鑑みて、たしかに、「不利な環境下ではありましたし、黒鉄ヒロシがいう、「攻め込まれる」土壌ではあったのです。


だからといって、ただやみくもに、「大陸文化の波動国家」だったり「満鮮一体論」(これは当時の差別的表現です)を説くのは、愚かな選択であり、進歩した適切な史実解釈と異なります。


北の満州・モンゴル地方には近世中葉期まで最強を誇った騎馬民族のお膝下があり、真西には巨大な中華帝国が君臨しておりました。つまるところの、「中華」と「朝鮮」の確執は、紀元前の前漢武帝以来から始まっております。そして、幾度かは冊封から離れて、高麗の「皇帝国」となった時期もありました。



日本はというと、朝鮮半島が一種の壁の役割を果たし歴史的に見ても極めて安全な地であって外来からの侵略は数回程度しかありません。

反面、朝鮮半島は、長きにわたって強力な外敵から常に身を守らなければならず、国力の発展もそのようなハンデを背負うことを必須とされました。

 しかし朝鮮の歴史においては、決して外来の強敵に屈したばかりではなく侵略のたびに「民衆の闘争」がありました。

それに引き換え弱腰だったのは、支配者層である政府側にあった事も言えます。



明治時代の自由民権の学者である樽井は、、新羅の優勢時代は、(自律の精神がある)日本に感化されて、そうなったと述べましたが、スキト・シベリア系の騎馬民を起源とする、濊貊(わいばく・えみやく)などの、混淆したハイブリット型騎馬民族特有の気風とも言えます。

その証拠として、神話においては、扶余系を元とする説話が数多く見られ、同じ高句麗・百済においても事情は同じでありました。そして、その高句麗は世界帝国、隋・唐の十数回の侵略をはねのけて、前者の滅亡の外的要因となりました。


そして新羅も、唐の野望である朝鮮征服の計画を、同盟を組む前から知っていて、「羅唐戦争」において、唐の勢力を、朝鮮半島から追い出しております。


このように、朝鮮半島は、ネトウヨや黒鉄ヒロシが言う、「万年属国」というものではなく、常に大国との侵略から耐え抜き、時にはそれを打ち砕き、冊封という東アジアの外交を通じながら、己の文化や社会を発展させて行きました。 まあ仮に、本当に「従属国」ならば、朝鮮はとうの昔に中国に併合され、融解していたことでしょう。



歴史を語る上において、ある特定の「切り離された文明や文化」は、存在しません。

なぜならば、世界は潮流のある海のように、万物流転し、大文明があれば、必然的に周辺地域に影響を及ぼすこと、それを享受した「小文明」たちは、大文明を基礎にして、文化を発展させる。


これ自体、何ら恥ずかしいことではありませんし、今は亡き藤子先生が、自身の著において、「文化は模倣を通じて育つ」としました。 私が看過できないのは、そうしたことを考えないで、やたらと、ある国を「大国の亜流国家」だのと、揶揄したり、パクリ国家だのと、罵倒することです。


そうした連中は、自国の文化に対しては、その特殊性を声高に叫んで、「影響は受けたが、それを全くもって、我が国特有のものへと昇華させた」と言いますが、そのような「文化の個別性」は、世界各地において、すべてに当てはまることです。これは単なる、世界に対する「想像力不足」です。


それに気づかず、自国の優越思想に結びつけたり、他者の差別や罵倒の道具に使うことは、愚の骨頂であり、断じて許されることではありません。



<参考文献>

・中国の歴史02『都市国家から中華へ 殷周春秋時代』平勢隆郎 講談社

・中国の歴史06『絢爛たる世界帝国隋唐時代』氣賀澤保規 講談社

・世界の歴史6 『隋唐帝国と古代朝鮮』砺波 護/武田 幸男[著] 中公文庫

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房