この記事は先月2月に書いたものですが、製作途中に緊急の話題が入りしばし投稿が遅れてしまいました。

また途中で3月29日の朝日新聞オピニオン欄での北海道大学准教授の中島岳志先生のアジア主義論で、拙記事内容と連動が見られたので加筆増量とさせていただきました。


まず記事の引用・要約抜粋をしていきましょう。


日本と中国の関係に好転の兆しがみえない。中国公船の相次ぐ領海侵犯。中国報道官の居丈高な発言。

同じアジアなのに、どうしてここまで話が通じないのか。近代日本とアジアの歴史を追いかけている中島岳志さんは「もっと大きな議論が必要。その鍵は戦前のアジア主義にある」という。アジア主義者なら今の状況をどう読み解くのか。


-アジア主義と言われると、米国から離れて中国とやっていこうと主張しているようにも聞こえます。

「そう単純ではありません。近年の中国共産党は過剰な資本主義に突き進み、国内においては抑圧的な政治体制を維持しつつ、外には覇権主義的な姿勢を見せてきました。日本人がいらだってしまうのは、その権威主義と国益追求の露骨さにも原因があるのだと思います。それは私たちにもある側面ですが。」


-アジア主義は戦前日本の侵略思想だったのではありませんか。

「利益や打算で基づく『政略』としてのアジア主義はそうです。大東亜共栄圏を目指す帝国主義の道具として利用されました。しかし当初、頭山満(とうやまみつる)や宮崎滔天(みやざきとうてん)は西洋列強の侵略にアジア諸国と手を携えて抵抗しようと訴えた。彼らの『心情』としてのアジア主義は、出発点から侵略を意図していたわけではありません。」


-どう違っていた、と。

「『一君万民』を掲げて天皇のもとの平等社会を目指したはずの明治維新が変質し、薩長中心の特権支配が生まれたとき、これに抵抗する武装闘争が各地で起きました。それがついえると、言論による抵抗として自由民権運動が高まり、その流れの中で頭山も福岡で玄洋社の活動を始めた。そのとき天皇主義とともに掲げた原則が、ナショナリズムと国民主権です。国家は一部の人間のものではなく国民のものだ、というナショナリズムと、『人民の主権を固守すべし』という国民主権の理念が右翼の原点にあったのです」

「この観点で世界に転じたとき、頭山には欧米の帝国主義と国内の封建体制という二重の圧政に苦しむアジア人民の姿が見えました。古い王朝を倒し、近代化によって万民が救われる新しい政治体制をつくるのがアジアの王道である、と考えた。各国で闘っているナショナリストたちと盟友として組み、二重の圧政を打倒しようと踏み出していく。これがアジア主義の源流です。」(引用おわり)


※朝日新聞インタビュー「アジア主義から見た中国」オピニオンより 2013年(平成25年)3月29日金曜日12版オピニオン17面         


中島教授がおっしゃられるアジア主義とは、ずばり近代の欧米列強からアジア侵略を防ぐ共闘体制と各国ナショナリストたちと連携して内政改革にも取り組むというものです。


これはベネディクト・アンダーソン教授のグローバリゼーション論における内容と重なるものがあります。

イギリスの産業革命から始まって19世紀中頃以降急速に交通・電信網が発達し、大英帝国の巨大海底ケーブルネットワーク郵便制度ないし蒸気船・鉄道など幅広い分野での流通促進は、人間や物質生活において革命を起こし所謂「第一次グローバリズム」と呼ばれるべきものでした。

そうした背景下で、まず欧米に対抗したのが南アメリカのクレオール諸国であって、それに影響を受けたフィリピンを始めとするアジア諸国でも急速にナショナリズムが広まっていきました。日本においては、末広鉄腸の『大海原』の小説の執筆の中でこれらの国々との連携を計り、日本海軍の支援のもとにこれを打ち破るという設定でした。これこそまさに、帝国主義に対するアジア間の協力の萌芽を示すものであり時期的にはとても早いものでもありました。


しかしタイトルのとおり、先に述べたアジア主義の本質は成立の背景に負の側面も確実にもっておりました。

それが今日においても重要な歴史関連の話で特に現在と密接に結びついている事柄として、日本と北朝鮮・韓国含む朝鮮半島の植民地支配を絡む内容を扱っていきます。


今回はそのひとつとして、あまり知られていない「大東合邦論」というものを取り上げてみようと思います。


これは樽井藤吉が唱えた説で、色々な評価が下されている問題の書でもあり、また一方では日本と朝鮮との対等な合邦という点が着目すべきところです。 しかし他方ではこれを日本の朝鮮併合のさいに果たした役割もあって朝鮮侵略を肯定した二律背反極まりないものでもあります。


「大東合邦論」は、著書の序文によると草稿は明治十八年(1885年)に書かれました。

しかしこれは出版のいとまがなく、著書の下獄によって草稿も失われました。のち明治二十三年(1890年)になって再び執筆し、「自由平等経論雑誌」に発表したのち同二十六年(1893年)に「大東合邦論」という書名で公刊されました。 このとき朝鮮人や中国人の人々にも読んでもらうために漢文でも表記されました。


このように書かれた時期は、明治十八年~明治二十六年(1885年~1893年)にわたっておりその時代背景として1884年に「甲申の変」(明治十七年)が起こり日本が朝鮮をめぐる清帝国との支配争奪戦に敗北して、清につづいて欧米列強とくにロシアが朝鮮半島に登場し、不振な日本が朝鮮の支配権を奪回しょうとあせっていた時でありました。「大東合邦論」はまさにそんな時代に書かれた自由民権派のアジア観ひいては朝鮮観です。

この書で樽井が述べた結論は、白人種の欧米列強のアジア侵略に対抗するために、黄人種のアジア諸国は団結して立ち上がるべきであり、それにはまず日本と朝鮮とが対等な形で合邦して「大東」という新しい合邦国をつくり、その大東国と清帝国とは緊密に手を握らねばならない、というものでありました。


日本と朝鮮との対等な形の連帯自体は、樽井自身の創見であり国名を大東として日本・朝鮮両国のどちらにも偏らないとする点は樽井の苦心のあらわれでした。そのあたりは、単なる侵略理論とは異なるもので特筆すべき点でありました。 朝鮮を事実上の独立国と認め、その上で対等な形での合邦を望んで頭から朝鮮の自主性を否定するのとはちがいました。 これ自体は自由民権論者が抱いていたアジア連帯意識の継承であり、好戦的な侵略論とは違う連帯の意識がありました。


しかし、実のところ「大東合邦論」には連帯意識と矛盾するところが多分に存在してて、それがのちの大アジア主義者によって朝鮮併合の観念的武器に使われるようになります。


樽井が大東合邦論を書いた動機は、欧米列強のアジア侵略に対する深刻な危機感でありました。

それはアジアの危機であり、同時に日本の危機であり、日本はアジア諸国と同様に侵略される危機にあると考えられていました。被侵略者の立場で日本はアジアの一員であり、そこからアジア諸国との連帯、連帯による欧米列強への対抗が主張されました。


朝鮮との対等合邦は、この立場からの発想でした。


しかし樽井は意味のわからないことに、侵略を本質的に不当なものと考えていませんでした。

つまり日本が侵略される危機にあるから侵略者は悪者なのであって、侵略そのものが不当なのではないという極めて乱暴な論理であり、欧米列強の侵略に対抗するためには日本も属領がほしいがもはや手にできる適当なところがないから、朝鮮と合邦して国を強大にせねばならんとしました(日本情況)。


もしも日本が属領を拡張することが可能ならば、それを否定する必要はないのです。

ただ現実に、その可能性がないだけなのです。こういう点では、樽井は膨張・侵略論の反対者ではありません。

時期が来ると、侵略主義者に転ずる可能性がありました。 当時の日本の国力の絶望的弱さが、樽井の侵略論をおさえてたといってよいでしょう。


また樽井はアジア諸国の富強開明と自主独立を待望しました。

朝鮮に対しても、清国に対しても同様に富強開明・自主独立を望みました。それが白人の侵略からアジアを守り、同時に日本の安全をはかる道であると考えました。そのさい、朝鮮が自主を達成するためには、清と手を切り、日本と親しむべきであると述べています(朝鮮情況、日韓古今之交渉)。その言によると、「朝鮮が太古から不振なのは国民に自主の精神が乏しいからであるが、それは中国と親しみ事大外交をつづけたからであり、現在でもその傾向がある。これに反し、自主の精神の強い日本に親しんだ時代には、朝鮮も日本の気をうけて自主精神が伸長し、国力が発展した。例えば三国の新羅がそうである。現在、朝鮮が自主独立の国となったものも日本のおかげである。だから朝鮮は清国をはなれて日本につかねばならん。」と、言いました。


まあなんという文学チックと申しますか、ここまで非科学的な論も初めてみました。というか、どこぞのh〇〇kというネトウヨもまったく同じことを言っていたことに何よりびっくり致しました(笑)まあ彼がパクッたのでしょう。


話はもどり時代もまだ近代化の原初段階の日本で、学術的探求の面でかなりの遅れをとっている当時の日本においての歴史観はまったくもって的外れな自悦史観であり、国学を由来とするナショナリズム史観はいたずらに朝鮮を貶め日本を高きにおくといういつものワンパターン論に過ぎません。ここで少し歴史を語らせて頂くと、地理的に見て朝鮮半島は極めて難しい位置にあり、北の満州・モンゴル地方には近世中葉期まで最強を誇った騎馬民族のお膝下があり真西には巨大な中華帝国が君臨しておりました。 日本はというと、朝鮮半島が一種の壁の役割を果たし歴史的に見ても極めて安全な地であって外来からの侵略は数回程度しかありません。


そうしたことから、朝鮮半島は長きにわたって強力な外敵から常に身を守らなければならず、国力の発展もそのようなハンデを背負うことを必須とされました。 しかし朝鮮の歴史においては、決して外来の強敵に屈したばかりではなく侵略のたびに「民衆の闘争」がありました。それに引き換え弱腰だったのは、支配者層である政府側にあった事も言えます。樽井がいう新羅の優勢時代は、日本に感化されたという事ではまったくなくスキト・シベリア系の騎馬民を起源とするわいばくなどの混淆型のハイブリット騎馬民族特有の気風とも言えます。その証拠として神話においては扶余系を元とする説話が数多く見られ、同じ高句麗・百済においても事情は同じでありました。そしてその高句麗は世界帝国隋・唐の十数回の侵略をはねのけて、前者の滅亡の外的要因となりました。これは拙ブログの高句麗記事を見て頂けたらご理解いただけると思います。


そして新羅も唐の野望である朝鮮征服の計画を持ち前の強力な軍隊で阻止して難を逃れました。

対する日本はというと、現在もっとも中華主義的と言われる「皇族」が存在して「アンチ中国」と叫びながらその権化である「皇」の呪縛から解かれないという哀れな情況に、私自身も情けないと感じております。

「国学」も別名「皇学」、皇国史観皇居までと何でもござれと「皇」という文字を入れ、挙句の果てには日本の王朝を特別な「皇朝」とし、その「皇統」の維持に固執して「姓なき万世一系」として未来永劫君臨していくだろうと非現実的なことまで言ってしまいます。また「一世一元の制」も「今生」、「陛下」も昭和の天皇裕仁まで名乗った「朕」「詔書」全て「卑しき中華大陸」の創造物です。つまり余程中華に対するコンプレックスと言いましょうか、真の中華対抗者である騎馬民族にとってはそんなものどうでも良いですし、特有の「ぜん于」や「可汗・汗」などの君主号を持ち高句麗の場合は突厥可汗から同等の「皇帝号」である「日出づる国の高句麗可汗」と称され、それはキョルテギン碑文に明確に刻印されています。


樽井論に対する攻撃はこれくらいにしておき、本題に戻りましょう。


彼が申した朝鮮への極めて「上から目線」の論は、この背後に朝鮮をめぐる日清の争覇があります。

何より注目すべきは、清の朝鮮への干渉を非難しながら、日本の干渉については何もいわず、むしろ日本は朝鮮の自主を守り助けたと錯覚している点であります。江華島事件・江華条約について「先年、江華島の事あり。理まさに兵を以て之を問うべし。然れども事ここに出ず、これを誘うに修好和親に以てし、これに諭すに宇内の形成を以てす。ついに隷属の位地を進めて自主の大朝鮮国となす。・・・顧みるに、朝鮮の大朝鮮と称するに至りしは日本誘導の力なり。然るに日本人のうち、その措置を喜ばざるものあり。朝鮮の民、また日本の徳義を感ぜざるものあり」といっています。あの不平等条約の実体については全く言及していません。そのほか日本の干渉政策については全く頬かむりで、日本の朝鮮政策を肯定しています。この点は、次記事において書く自由民権派の考えと同様であります。これでは朝鮮の自主独立を唱えたとしても、全く観念的あるいは独りよがりのものに終わざるえません。しかも、これが清国の朝鮮からの排除とならんで主張されるときには、日本の朝鮮侵略の支持、日清戦争への布石とならざるをえません。ここにも重大な欠陥があります。


樽井は日本と朝鮮との合邦を、日本の利益であるとみなしました。同時に朝鮮にとって最大の利益・恩恵と考えました。樽井によると、日本は世界無比の国体、めぐまれた自然、自主精神に富む国民、富強開明への進展など、実に誇るべき国であるとしました。これに反する朝鮮は専制国で政治は乱れ、国民に気力なく、落語している国であると、今では鼻で笑いたくなるような恥ずかしい言葉の連続でありますが、私が文化論で述べた日本の「まねし小僧」的な文化発展プロセスを見ると、近代以前は中国の漢字文化に全ての恩恵を受けてそれをいくらかは特殊化しましたが、近代以後はまったく西洋文明のコピーに躍起となり学術・政治・文化・芸術すべての面においての敗北を余儀なくされたのは事実です。 


私がここまで厳しく言ってしまうのは今記事に書いている樽井を始めとする戦前の論者ないしそれを受け継ぐ保守・右派人らの独善性に対する批判であります。

私自身も不当に日本が貶められることには憂慮を感じますし、その逆における他国批判も然りです。

ただそれだけの理由であります。


そんな中で、日本が朝鮮と合邦するのは、一方では重荷をしょいこむことになるが、日本の安全・国力の増進に役立つからである(合同利害)。朝鮮の守りは日本の守りであって、朝鮮が侵略されたら合邦しない場合でも傍観はできない。合邦して朝鮮が強くなれば日本も安全になる。また朝鮮人は体が丈夫だから日本の兵器をもたせれば立派な兵士になりロシアの侵略を防ぐことができる。合邦して国が大きくなると、外国も畏敬するようになる。合邦すれば地つづきのロシア・清国との貿易の便が増す。何よりも征韓論のように戦って朝鮮をとるよりも国力を消耗せずに済む。合邦は日本からいうと朝鮮をとることであり、朝鮮からいうと日本をとることでありますが、合邦は金も人命もかからぬ安上がりの相互占取である、としました。


日本にとって利益がるだけではなく、朝鮮にとってはもっと大きな利益があるといいます。

日本より劣る朝鮮は、合邦によって日本よりずっと大きな利益をうけ、朝鮮国民が利益をうけるのは勿論のこと、国王の利益も大きい。いま東学党が動き出してフランス革命のような惨状が現出するかもわからんが、合邦すれば国王の地位は安泰になり、いつまでも王家を持続できる、として樽井の合邦論には、合邦によって国内の困難な事態の解決をはかるという内政改革への志向は全くみられません。両国の現実の事態をそのまま肯定し、それには手を付けずに国の拡大・富強をはかるだけであります。この合邦論には、同案によって日本国内の自由民権を伸張するという意欲は全くもってございません。また朝鮮における開化派への支持もありません。


樽井は意欲は矛盾したものを含んでおります。

朝鮮の自主独立を前提として朝鮮と合邦するという点は、一つの連帯意識のあらわれであります。

しかし、自主独立といいながら、現実には日本の大陸発展路線を肯定した点では侵略意識の存在をみないわけにはいきません。列強の抑圧に苦しみながら、列強の仲間に入ろうと努力していた当時の日本の矛盾した姿の反映と見てよいでしょう。 やがて日本が日清戦争に勝ち、アジアの盟主的地位を勝ち取ると、「大東合邦論」は大陸政策に都合の良い武器となります。


韓国併合のときに大活躍をした黒龍会の内田良平、内田と意気投合して併合の推進につとめた一進会長の李容九は、ともに「大東合邦論」に共鳴し、その趣旨にもとづいて両国の合邦を考え努力しました。

ところが併合が実現したのちになって、内田は併合のやり方や朝鮮支配の方法がまちがっており本来の目標にそわなかったといって憤慨し、日本政府を非難攻撃しました。この内田の言動から内田が期待したのは併合ではなく合邦であり、その考えのなかには侵略ではなく連帯の精神があったといい、内田らの大アジア主義者の行動を弁護するものがいます。


果たしてそうでありましょうか。

内田らの朝鮮観を示す好適な材料は、併合の前夜に一進会長李容九の名で出された併合推進の訴えであります。すなわち明治四二年一二月四日附の「声明書」・「皇帝に上る書」・「総理に上る書」・「統監に上る書」および一二月二一日附の桂首相への「陳情書」であります。


どれも李容九の名で出ていますが、その草稿の作成には内田らが主としてあたっており形をととのえた文章にしたのは内田の仲間の武田範之であり、しかも草稿は桂首相にみせて同意を得ております。

李容九の考えも当然はいっていますが、一切のお膳立ては内田らがやったとみてようでしょう。


内田は「大東合邦論」に趣旨に賛成して、これを実現するために合邦運動を強行したと言っております。

したがって前記の声明書・上奏文・陳情書には、大東合邦論と同様の主張があります。しかし同時に違った面も多分にあります。日本と朝鮮とが合邦して強くなるのが、朝鮮人の生活苦の救済のためにも、朝鮮の王家の安泰にとっても、また日本の自衛のためにも大いによろしい、という点は共通であります。

しかし、合邦を説く根拠が違います。

「大東合邦論」では欧米列強の侵略によるアジアの危機をのりきるために合邦が主張されましたが、ここにはそういう危機感はありません。少なくとも、日本が列強に圧迫されているという危機感は全くありません。

日本は世界の一等国だと言っています。非圧迫民族としての運命の共同という意識は皆無になっています。

また「大東合邦論」では、観念的とはいえ、朝鮮の自主・独立の尊重という点は言葉の上さえも消失しております。それに代わって日本の天皇の広大無辺な恩沢への信頼、零落した朝鮮民衆が一等国民たる日本国民に上昇する期待が強調されています。これは強国による弱国の吸収を肯定する考えであります。


さらに注目すべきは「日韓一家」意識の強調であります。

人種・宗教・文字・風俗・言語などの同一性をならべて、両者の一体化が本来自然の姿であるといいます。

これは朝鮮民族の独自性の放棄、日本人への吸収、朝鮮民族の否定へつながる考えであります。

このように、同じく合邦といいながら大東合邦論とのへだたりは大きいです。いま内田らの日韓合邦運動は朝鮮侵略ではなく朝鮮との連帯を意図したものであり、それはアジア連帯の基礎になるべきものであった、というものがいます。


日本の朝鮮侵略に対して何の批判もなく、侵略の先頭に立ち、また朝鮮の自主・独立の援助ではなくその否定しか考えぬところに、連帯はありえません。


そして後の植民地政策に反映されて、これらの政策は施行されましたが全て大失敗に終わり逆に朝鮮民衆の民族意識を高めました。また日本は一等国といいながら、大英帝国を頂点とする「近代主義」の末端に位置して「西洋の番犬」的地位にとどまった事は周知の事実であります。 つまり、近代主義を受け入れた時点でアジアは敗北したのです。古代における隋・唐世界帝国、後のモンゴルの世界制覇、ポストモンゴル・ユーラシア型国家時代を経て長らくアジアの時代は続きましたが、近代以後の特に西欧列強の侵略により形勢は逆転しそれが帝国主義時代において頂点を迎えました。そして20世紀以後の西洋の没落後のアメリカの覇権獲得の時代を経て、再び中国を筆頭とするアジアの時代が訪れております。


<参考文献>

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

・『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』光文社新書

・その他資料朝日新聞オピニオン欄2013年3月29日17面