前回のブログで、カウンセラーから新たな視点を与えられたことによって
誰の言葉を頼りに人生について考えていけばいいか分からなくなった、ということを書いた。
今日、ある程度その結論を導き出すことができたので、
忘れてしまう前にとブログを書くことにした。
担任業務が軽減されてから時間に余裕が生まれ、
気になった本を手に取ることが多くなった。
しかし購入するペースと読み進めるペースが合わず、読みたいと思う本だけが増えていた。
自宅では何かとごちゃごちゃ話し声等が気になりすぎてしまうため、
今日は近所のカフェで1冊、
「あなたが死にたいのは、死ぬほど頑張っているから」(平光源 サンマーク出版 2021)を読み終えてきた。
今まで私がブログで書いてきたような思考と似ていることが非常に多く、
我ながらよい本を買ったものだと思った。
そしてこの本の『「死」は人生のリセットではない』という節を読み、
ある程度の結論を導き出すことができた。
その節では、単語こそ出ていないものの、愛着について書いているのだろうと言うことを感じた。
というのも、先日読んだ岡田尊司さんの「愛着障害」にあった、
安全地帯について触れられていたためである。
(安全地帯という単語も出てきていないが)
以下でおおすじをまとめることとする。
私たちは父親と母親から愛され、癒やされ、大丈夫だと思うと安心して家庭という基地から外に飛び出すことができる。外でいくら傷ついても、家で愛情を繰り返しもらいながら、「本当は自分は何をしたいのか」という思いを育み、それに沿って生きていく。つまり、生きる中心を「自分」に据える、自分軸で考えて行動することができるようになる。そうすることで自立した大人になっていく。
しかし、両親が不仲であったり、離婚、死別で一人親だったりすると、子どもは親の顔色を伺うようになり、「生きるとは、相手の顔色をうかがって、相手に合わせてその場を取り繕うことである」と錯覚してしまう。この状態では「相手にうまく合わせる」=「生きること」であるため、一人でいるとどう生きていいか分からなり、生きる中心が他人になってしまう。
これを読んだとき、まさに私だなと思った。
先日のカウンセラーも今まで私自身がどうしたいかということをあまり考えないできた、ということは私の話から掴んでいたし、
実際に周りをうかがって、それに合わせて生きてきたために、
今、このまま教員生活を続けたらいいのか、転職したらいいのか分からなくなっている。
ここから導き出した私の仮の結論はこうである。
「今まで病院・スクールカウンセラー・副校長に言われてきたことも、先日のカウンセラーに言われたことも当てはまる。だからそこから弁証法的に自分のなりの考えをつくればよい。」
先日のカウンセラーは私のような家庭状況はよくあることで、もっと酷い家庭もある、愛着障害なんて私のようなレベルのものではないというようなことを言った。
しかし、父が自殺した後に母が再婚し、それを受け入れられず拒んだ結果一人で生きてきた父、
おそらく愛着障害であろう彼の影響を、子の私が受けないわけがなかろう。
(岡田尊司さんの本でも親の(ここでは主に母親とされていたが)愛着の型は子に影響するということが書かれていたような記憶がある。)
愛着障害とまではいかないのかもしれないが、それに近いものは私ももっていると思う。
だがしかし、また、そのカウンセラーがいうように、
私が病ではなく人生について考えているというのもそうであると思う。
(それでも少なくとも初期の頃は病であったと思うが。)
だから、どちらの話をもとに人生を考えていけばよいのかと縛られるのではなく、
両者の話を聞いてそうだと思う部分は受け入れ、
違うと思ったらそういう考えもある、その程度で流せばいい、
ただそれだけの話だと思った。
自分で書いていて馬鹿馬鹿しくなるほど当たり前のことであった。
とりあえず明日は病院に行く。そこでなんと言われるか、
進展があったらまたブログを書こうと思う。