今日は大学生時代お世話になった小学校の先生にご飯につれていてもらった。
精神的にまいりはじめた11月当初は
「私より大変な人もいたから大丈夫、あなただけじゃないよ」
と言われることが苦痛だった。
「他の人と比べて私は大したことないのにこんなことになってしまって申し訳ない」
そう思ってしまったから。
(それに対してスクールカウンセラーさんが私の問題は学校ではなく家庭にあるのではないか、他と比べても苦しいところが違うのでそう感じるのではないか...と言ってくれたことが私の中にとても落ちた記憶がある。)
しかしある程度落ち着いたのか、私自身が少し成長したのか、
今日その先生が苦しかった話を聞いても特になんとも思わなかった。
(その先生自身がその頃の話を詳しく話さなかったこともあるが。
その時代は最底辺で今でもその学校に行くとアレルギー反応のようなものが出るらしい。)
むしろ自分より大変な人もそこを通り抜けて教員を続けているんだな、と思えた。
ところで今日のブログは、教員の末端として現在の日本の教育に苦言を呈そうと思う。
本を読んでいて、日本の教育は足りなさすぎる、そう思った。
不勉強な部分が多くある人間ではあるが、私が現在もっている知識から話を進めていく。
さて最近読んだ本に平光源さんの「あなたが死にたいのは、死ぬほど頑張っているから」(サンマーク出版 2021)がある。
その本の中でADHDについて触れられている部分があった。
一言で言うなら、「ADHDはただの偏りであり、他の人が思いつかないことを想像できる能力、才能である」と書かれていた。
学校という場にいるため、やはり学生自時代よりも
ADHDと診断された子どもたちに接する機会が増えた。
そしてその才能を目の当たりにしたことがある。
教室に行けなくなってからしばらく、私の学級の支援を要する子どもの個別対応をしていた。
その児童は来年から特別支援学級に入級することが決まっていて、
その際の抵抗感を減らすため、特別支援学級の児童と交流していた。
ある日交流しにきた児童が何か工作を持ってきた。
普段子どもたちが何か作ったり書いたりしたものを見せてくれても、
正直すごいと思えるものはあまりなかった。
ただ、流すわけにもいかないので「わ~!すごいね!」と演じていた。
しかしその工作を見たときは違った。
「え、すご....」と思わずつぶやきが出てしまったくらい。
その工作はベイブレードというコマのおもちゃを模していた。
ベイブレードはランチャーを引っ張るとコマがランチャーから外れ、回り出すというおもちゃだが、
それを見事に紙コップやストロー等を使って作り上げていた。
身近な材料でこんなものを作ることができるのかと、ただただ感動した。
聞いてみるとその児童は砂場を深くまで掘って粘土層までたどり着き、
その地層を調べたり、縄文土器を作ったりすることもしていたようである。
大学時代の研究室の先生にも工作を見て感動したということを話したが、
そのような子どもたちは「ギフテッドチルドレン」と呼ばれることがあるようである。
先程触れた本の中で、まさにそのことが書かれていた。
「それがいまや、アメリカ教育省では、そのような子供たちは、ギフテッド(同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せるほど、突出した知性と精神性を兼ね備えた子供)として、特別なクラスで大切に育てられているのです。」
日本でこのような話は聞いたことがない。
日本にあるのは特別支援学級である。
特別支援学級が悪いとは全く思わないが、
あまりギフテッド、特別な能力をもっている児童が行くという認識ではないだろう。
保護者が特別支援学級入級を拒むことが多くあることを考えると分かりやすい。
先程の工作の児童も、私の学級にいる支援を要する子どもも、
集団の中ではトラブルを数多く起こし、なかなかなじむことができない。
しかし、個別で支援すると大きく伸びることを、初任ながら実感している。
これが、ADHD等の子どもたちだけの話かといったらそうではないと思う。
通常学級でもやはり、じっくりひとりひとりと向き合ってくことが重要である。
「個に応じた指導」という言葉もよく耳にする。
しかし、これが言葉だけで中身がともなっていないように感じる。
私の学級には35人児童がいるが、正直全員と1日1回会話をするのは難しい。
また、会話ができても、学級事務との兼ね合いもあり、ゆっくり時間を取ることはできない。
とても正直に書くと、未だにどういう児童なのかつかめていないと思う児童も何人かいる。
(教室に行っていないのでなおさら)
個に応じた指導と言いながら、まず制度があまりにもできあがっていなさすぎる。
怒りを感じずにはいられないだろう。
子どもたちの能力を伸ばしたくてもそうできない現実がある。
教員の数を減らすという記事も最近見かけた気がする。
言っていることとやっていることが全く一致していないのである。
日本の教育はもう限界であるように思う。
そもそも文部科学大臣というのも、教育に接したことがない人間がなることが多く、
だからその諮問機関として中央教育審議会というものが存在するとどこかで聞いた気がする。
教育を知らない人間が教育界のトップに立っている。
現場のことを何も知らずに何を語っているのだろうか。
机上の空論も甚だしい。
このような状況下で教員を続けることは難しいように思う。
やりたいことができない、そしてそれを自分の力で解決することも難しい。
私が教員を続けるとしたら、それは安定した収入、ただそのためだけである。