上映日:2023年10月13日製作国・地域:日本上映時間:178分
監督
岩井俊二
脚本
岩井俊二
原作
岩井俊二
主題歌/挿入歌
アイナ・ジ・エンド
出演者
アイナ・ジ・エンド
松村北斗
黒木華
広瀬すず
村上虹郎
松浦祐也
笠原秀幸
粗品
⽮⼭花
七尾旅人
ロバート・キャンベル
大塚愛
安藤裕子
江口洋介
吉瀬美智子
樋口真嗣
奥菜恵
浅田美代子
⽯井⻯也
豊原功補
松本まりか
北村有起哉
鈴木慶一
水越けいこ
声が出ないのに、歌だけは歌える。
その矛盾を知った瞬間、この少女の歌を聴いてみたくなる。
『キリエのうた』は、言葉にならなかった人生が、音楽になって誰かへ届いていく映画だ。
主人公のキリエは、普段はうまく声を出すことができない。
けれど、歌うときだけ声が出る。
路上に立ち、小さな身体から絞り出すように歌う彼女を中心に、夏彦、イッコ、風美という人々の人生が、北海道、石巻、大阪、東京をまたぎながら交差していく。
監督は岩井俊二。
物語は一直線には進まない。
現在を歩いていたはずなのに、いつの間にか過去へいる。
一人の人物を見ていたはずなのに、別の誰かの記憶へ入り込んでいる。
最初は少し戸惑う。
けれど、しばらくすると、この映画にはこの語り方しかなかったのではないかと思えてくる。
記憶そのものが、順番通りには蘇らないからだ。
忘れていたはずの人を、音楽一つで思い出すことがある。
街の匂い。
昔聞いた声。
何気ない言葉。
記憶は時間を無視して、突然現在へ戻ってくる。
『キリエのうた』の時間も、そんなふうに流れている。
だからこれは、物語を追いかける映画というより、散らばった人生の欠片を拾っていく映画に近い。
やがて、最初は無関係に見えていた出来事の間に細い糸が見えてくる。
その糸を結んでいるのが音楽だ。
何より、アイナ・ジ・エンドの歌声が強い。
きれいに整えられた声ではない。
かすれる。
震える。
ときには、歌というより叫びに近くなる。
だから耳に届く前に、身体へぶつかってくる。
ここでは、その不安定さこそが美しい。
もし完璧に歌われていたら、キリエという人物の痛みはこれほど伝わらなかったかもしれない。
岩井俊二は、その声を説明の代わりに使う。
キリエが何を感じているのか。
どれほど傷ついているのか。
映画はすべてを台詞にはしない。
歌わせる。
すると、言葉より多くのものが伝わってくる。
人間には、話せることと話せないことがある。
悲しみが深すぎると、「悲しい」と言った瞬間に何かが違ってしまうことさえある。
そんなとき、人は別の形を必要とする。
絵を描く人もいる。
文章を書く人もいる。
そしてキリエは歌う。
だから彼女にとって音楽は、夢でも職業でもない。
世界とつながるための、ほとんど唯一の方法なのだ。
この映画に流れているのは、喪失である。
誰かを失う。
居場所を失う。
戻れない時間が増えていく。
2011年の東日本大震災も、登場人物たちの人生に大きな影を落としている。
しかし作品は、喪失を乗り越えるための分かりやすい物語にはしない。
そこに誠実さを感じた。
人は、大切な人を失ったからといって、ある日きれいに立ち直るわけではない。
忘れるわけでもない。
悲しみを身体のどこかへ置いたまま、仕事をして、食事をして、ときには笑う。
生きるとは、傷を消すことではなく、傷と一緒に歩けるようになることなのかもしれない。
その感覚を、この映画は長い時間を使って描いていく。
上映時間は決して短くない。
しかも、説明を省く。
寄り道もする。
だから人によっては、まとまりがないと感じるかもしれない。
けれど、その余白まで含めて岩井俊二の映画なのだと思う。
人生そのものが、伏線をきれいに回収してくれる物語ではないからだ。
出会った意味が分からない人もいる。
別れた理由を最後まで理解できないこともある。
「あのとき、こうしていれば」と思いながら終わる関係もある。
映画は、そうした未完成の人生を無理に完成させない。
そして、その隙間を歌が流れていく。
タイトルにある「キリエ」という響きも、観終わるころには祈りのように聞こえてくる。
誰かに救ってほしいという祈りだけではない。
私はここにいる。
私はあなたを覚えている。
私はまだ生きている。
そんな、存在そのものを確かめるための祈りだ。
だから『キリエのうた』は、音楽についての映画でありながら、音楽の素晴らしさだけを語る作品ではない。
なぜ人間には歌が必要なのか。
その理由を、一人の少女の人生を通して感じさせる。
物語を理解しようと急がず、まずキリエの声を聴いてほしい。
歌い始めた瞬間、それまで言葉にならなかった彼女の人生が、こちらへ流れ込んでくる。
そして最後の一音が消えたあとに残る静けさまで、この映画の「うた」なのだ。
