ドロステのはてで僕ら(2020) | 浮遊家具

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映画 大好き また 始めたいと思います。黄斑変性、SLE、双極性障害で仕事ができなくなり、一人、家の中にいる自分、置き場所のない浮遊して漂う家具のよう。ただ、時間だけが進んだ、治癒は進み現在に至る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじ

とある雑居ビルの2階。カトウがギターを弾こうとしていると、テレビの中から声がする。見ると、画面には自分の顔。しかもこちらに向かって話しかけている。「オレは、未来のオレ。2分後のオレ」。どうやらカトウのいる2階の部屋と1階のカフェが、2分の時差で繋がっているらしい。“タイムテレビ”の存在を知り、もっと先の未来を知ろうと躍起になる仲間たち。さらにカトウの意中の相手メグミや5階に事務所を構えるヤミ金業者、カフェに訪れた謎の2人組も巻き込み、「時間的ハウリング」は無限ループに陥っていく......。






製作国:日本上映時間:70分


監督

山口淳太

脚本

上田誠

出演者

土佐和成

朝倉あき

藤谷理子

角田貴志

石田剛太

諏訪雅

中川晴樹

酒井善史

永野宗典






つぶやき

ドロステのはてで僕らは、いわゆる“低予算SF”という言葉の価値を一段引き上げた作品だと思う。舞台はほぼ一つ、登場人物も限られ、VFXに頼らない。それでも成立どころか、むしろその制約が映画としての面白さを加速させている。

物語の核は「2分後の未来が現在に映し出される」というシンプルなアイデアだが、これをリアルタイム進行で、しかもほぼ全編ワンカット風に処理している点が重要だ。時間SFにありがちな“説明”や“設定の複雑さ”に逃げず、観客に対して「今起きていることをそのまま追えばいい」という設計になっている。この設計のうまさが、そのまま没入感に直結している。

序盤はやや戸惑う。画面内の画面、そしてそのまた先の未来の画面という多層構造を理解する必要があるからだ。ただ、その混乱自体が意図された体験でもある。登場人物たちと同じく、「今何が起きているのか」を把握しようとする過程が、そのまま物語への参加になっていく。ここで置いていかれないようにするため、会話劇としてのテンポが非常に計算されているのが分かる。

中盤以降、この“2分のズレ”を利用したループ的状況が一気に加速する。ここがこの作品の本質で、単なるアイデア一発ではなく、「そのアイデアをどう展開するか」にかなりの知性が使われている。未来の自分たちに指示を出し、その結果が現在に返ってくるという構造は、因果関係をほぼリアルタイムで可視化する実験のようでもある。普通なら編集やカットでごまかす部分を、あえて連続性で押し切ることで、逆に論理の一貫性が際立つ。

一方で、ロジックは厳密すぎるほどではない。むしろどこかで「このルールで遊ぶ」ことを優先していて、細部の矛盾はある程度飲み込ませる方向に振っている。ただ、それが気にならないのは、登場人物の振る舞いが徹底して“人間的”だからだ。状況を完全に理解しているわけでもなく、時に欲や軽率さで行動する。この軽さが、時間SFにありがちな“理詰めの冷たさ”を中和している。

技術的な側面で言えば、カメラワークと役者の動線設計がほぼすべてを支えている。特に、同じ空間を何度も往復しながら時間の層を重ねていく演出は、舞台劇に近い精度が要求されるはずだが、それを破綻なく成立させている。ここは純粋に職人的な達成度が高い。観ている最中に「どうやって撮ったのか」を考えてしまう瞬間が何度もあるが、それ自体が作品の楽しみの一部になっている。

終盤は、構造的なカタルシスというより、「ここまで積み上げたルールの中でどこまでやれるか」というゲームの帰結に近い。大きなテーマ性や感情の爆発を求めると物足りなさはあるかもしれないが、この作品はそこを目的にしていない。むしろ、制約の中でどれだけ純度の高いエンタメを作れるかという一点に集中している。

結果として、ドロステのはてで僕らは「アイデア」「構造」「実装」の三点が極めてバランスよく噛み合った、非常に完成度の高い小品になっている。派手さはないが、見終わった後に“よくできている”という感触が強く残るタイプの映画で、時間SFの中でもかなり異質な立ち位置にある。