昨夜の真夜中放送の『ヤマトタケル』みな様はご覧になられましたか?

我が家ではさすがにリアルタイムでは見られなかったので
今日、朝の9時から午後1時過ぎまでほぼ全編を家人と通して見ました。

1995年新橋演舞場。28年前の公演ですからみんな若いですね~。
私も若いです(笑)

この放送を見ながら色んな事が思い出されました。


この時の『ヤマトタケル』はもう何回も再演を重ねた後ですので、
かなり脚本も変わり、配役もだいぶ変わっておりました。

そしてこの『ヤマトタケル』が猿翁旦那が東京での最後のヤマトタケルの

公演でした。


この後1998年9・10月の大阪松竹座での公演が
猿翁旦那の『ヤマトタケル』の本当に最後の最後の公演でした。

『ヤマトタケル』の録画を見ながら初演の頃と変わっていないところと
変わっているところが目に付きました。


例えば熊襲館でのヤイレポ(猿弥さん)の踊り

初演の時にヤイレポを演じられたのは坂東吉弥さんでした。

坂東弥十郎さんのお兄さまです。

森下町のベニサンスタジオでのお稽古の時、この踊りの音楽を聴かれて
これどうしようか。。。とおっしゃっていた姿が今も思い出されます。

一応は振付師の振りがあったように思いますが、

ほとんどが吉弥さんご自分で工夫された踊りでした。

また、踊りの構成に対しても まだ試行錯誤の中、猿翁旦那が
「蝦夷の国のヤイレポと琉球の踊り子 それぞれが別々に踊ると時間が長くなるなあ~」

・・・と。

「それならヤイレポが踊り子を呼んで一緒に踊りましょうか?」と提案、
「あぁ、それがいい」と吉弥さんの考えを即座に承認(笑)

型と云うのはこのようにその場で作られて行くのです。
私も初演の時はこの琉球の踊り子に出ておりましたからよく覚えております。


吉弥さんの作られた独特の踊り。

その振りが変わらず、そのまま猿弥さんが踊っているのを見て
人は変わっても振り付けは同じ・・・と、なんだか胸が熱くなりました。

 

余談ですが後年、私も右團次さん段治郎(喜多村禄郎)さんの『ヤマトタケル』の時
ヤイレポを勤めさせて頂きましたが、その時は音楽も振り付けも全く違うものでした。
この時は振付師の振り付けのままで、私の創作部分はありませんでした。

ちょっと残念??かな。


帝のお役も色んな人が勤められましたね。
初代は実川延若さん それから島田正吾さん 河原崎権十郎さんとつづき、 
市川段四郎さんへと変わられました。

この放送の時は段四郎さんでした。


初めの頃は私も焼津の火の精や走水の波後見等、舞台や舞台裏でも
所狭しと動いておりましたから、裏の大変な事はよくわかります(笑)


この『ヤマトタケル』の放送ではやっと第3幕にて私の出番がやって参りました。
尾張の国造(坂東竹三郎さん)の妻としてネームタイトル、市川延夫(市川猿三郎)
とまで出して頂いたのは嬉しかったですね(笑)


出て参りましたのは、3幕ですがもちろん1幕にも2幕にも出ておりました。

出ていると云うのは、正しいのかはわかりませんが、もちろん吹替です。

 

1幕では大碓命と小碓命の猿翁旦那の1人2役の早替わりでの場面。

小碓の吹替が私です。
御簾越しの場面などは、正面向きで結構アップに映っておりますが、

微妙に見えないのですよね(笑) 見えたら困ってしまいますが(笑)

 

 

2幕では、焼津で弟橘姫が合流した後に、草の向こうの道中の場面。

こちらも吹替でして、私はヤマトタケルを演じておりました。

 

初演からあった場面ではなく、確かこの公演の時から作られた場面でしたが、

3年後に松竹座での公演時には、確か初日から数日で無くなってしまいました。

この吹替の場面自体が・・・ごっそりと(笑)長く感じられたのでしょう。

 

いわば、松竹座では幻の場面だったわけです。

ヤマトタケルの長い歴史の中でも、私が「ヤマトタケル(吹替)」であったのは

演舞場の2ヶ月と、松竹座での数日間のみです。

わりと貴重な場面が、こうして映像に残っておりますのは嬉しい事です。



色んな場面場面が色褪せずにこうしてスーパー歌舞伎の歴史として残って行けるのは
本当にスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』が古典になった証だとつくづく思いました。


今後もスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』が時を超え人を変えて

ずぅ~っと上演されて行くその歴史の中に少しでも名前が刻まれた事は嬉しく思います。
 

来年上演される『ヤマトタケル』また新時代の物、楽しみですね。