1988年(昭和63年)9月に「ヤマトタケル」の21世紀歌舞伎組版であります
「伊吹山のヤマトタケル」が渋谷のパルコ劇場で上演されてから35年の月日が経ちました。

梅原先生の脚本で本公演ではあまりにも長すぎて上演できなかった
伊吹山の場面をメインに私たちに与えて下さった公演の場所。

このお稽古のために前の月の8月は猿翁旦那の別荘、軽井沢で一門が合宿で
お稽古したのも懐かしい思い出です。


この年から毎年8月は「右近(右團次)の会」や色んなお弟子さんの自主公演、
また第1回から毎年、翔の会が開催されたりしておよそ15年間、
8月は軽井沢でなんらかのお稽古と云うのが恒例となりました。

後年、天翔館と云う立派なお稽古場もできましたが初期の頃は
納屋を改造した掘っ立て小屋のようなプレハブのお稽古場でした。

広さ的にはどのくらいだったでしょうか。

当時は考えた事はありませんでしたが、30畳くらい?

軽井沢は涼しいですから当然お稽古場にはエアコンはありませんし
テレビもありません ですが日中の表は暑いです(笑)


それほど広くないお稽古場は いわばワンルーム状態で 一度入りますと、

そこに居るしかありません

色んなお芝居や踊りのお稽古を 旦那の見ている目の前でず~っと。

みんな逃げ場(笑)がなく籠りっぱなしで行われました。


何年にも渡りまして、このお稽古場で様々なお稽古を致しました。
中でも澤五郎さんと第4回翔の会で踊った「三社祭」は旦那の前で
何回踊らされた事でしょうか?(笑)
2人ともへとへとになった事を覚えております。

旦那は「この踊りはうまく踊ろうとするのではなく、慣れて余裕があるくらい
踊り込まないとダメです。とにかく踊りこなすこと・・・。」
と云うご指摘を頂きました。

この時は、さすがに全員集合のお稽古ではなく、1つの期間に三組くらい。

ですから みなに見られて踊り続けていた訳ではありませんでしたが、

あの時に居たのは 誰だったでしょう。

へとへとだったことは覚えておりますが、誰がいたのかは覚えておりません


このお稽古より前に澤五郎さんと毎日、中日劇場や歌舞伎座の開演前に

1回踊って慣れる事にしたのもいい思い出です。

それほどまでに踊り込んで軽井沢に乗り込んだはずでしたのに、ダメでしたね(笑)
今はもう「三社祭」は体力的に踊れません(笑)


そして全員集合の折は 夜はその大きくもないお稽古場に一門の弟子

およそ30人くらいが布団を並べて寝るのです。
まるで小学校の林間学校か修学旅行のようですね。

二列に頭を突き合わせて寝る訳です。

 

中には30人分の布団を出した後にあいた布団部屋を陣取って寝ている人も。

その当時から下っ端(笑)ではなかった私は 端の方に寝る事ができてました。


狭い布団部屋よりは、広いところがよかったですね。
ただ私は、朝はどんなに早くても平気ですが、夜は早く眠りたい方。

しかし猿翁旦那や一門のほとんどの人は夜行性の人が多く
お稽古はだいたい昼食後の1時から夜の10時頃まで続き、
それから夕飯ですから当然、就寝は毎夜12時を越えます。

私は夜中の1時頃に寝ても7時には目が覚めてしまいます。
他の人は10時ころまではまだ寝ているし、お稽古場は町からずいぶん
離れた所にありましたからできる事もなくこの時間がとてもつらかったですね。

初めの頃は携帯電話もなくみんなうちに電話するには
かなり離れた公衆電話ボックスまで車で行かなくてはなりません

当然私は車を持っておりませんし、電話もかけられませんでした。
後年はバイクで行って朝は軽井沢をツーリングと云うのが日課にはなりましたが・・・(笑)
天翔館が出来てからはこのプレハブのお稽古場は使われなくなりました。

そんな軽井沢のお稽古場も猿翁旦那が病に倒れてから行く事もなくなり
軽井沢の別荘そのものもすでに引き払われました。

7月の歌舞伎座の奮闘公演が終わり暑い夏の軽井沢のお稽古と勉強会。

あの時のお稽古はつらかったですが、振り返るって考えますと、猿翁旦那と

24時間同じ空間で生活した 貴重な体験でした。