博多座の舞台を降板いたしましてから ちょうど一ヶ月が経ちました。
帰宅してから、果てしない「大病院への道」に悩み、あがき、その中で親友の助けで
自力では紹介状を得る事も難しい様な病院を受診する事ができました。

その病院で、ようやく自分自身の詳しい症状が診断として出されました。
痛みの原因がわかり、その後の治療の方針もなんとなく見えて参りました。

ひと月前まで真っ暗な中に立ち止まっていただけでしたが、
前を向いて歩きだせそうな気分になりましたのも、大きな進歩だったと思います。


それと同時に、完走する事が叶わなかった舞台についても
ほんの少しだけ振り返って考える事も出来るようになりました。

自分自身の気持ちの整理をつけるためにも、ひと月前に遡って
少し博多座の舞台について書いてみようと思います。
もしかしたら、御不快に思われる方も居られるかもしれませんが、ご容赦ください。
長文です。


もともと、歌舞伎は若い時から膝を駆使する職業でしたので、時々痛みが出る事は
ありました。

しかし、みな様もご存じのように 普段から歩くのが大好きですので、
「常に痛い」、「常に膝に違和感がある」と云ったようなことはありませんでした。


今から思い返しますと、最初の違和感は昨年末の事でした。
夜中にひどく足がツリまして、その後の数日はつっぱった様な違和感が
続いておりました。
年が明けても なんとなく、痛いなあ・・・と。

それが緩和して参りましてから暫くしまして、今度は膝に違和感を感じました。
つった事で 歩き方がおかしくなり、膝に負担が来ていたのかも知れません


最初は、「痛いな」程度だったのですが、1月の散歩のある日、バスから降りた瞬間に
違和感以上の痛みを感じました。

そして数日。
家の中でも何かにつかまらないと、歩けない状態になってしまい驚きました。
急遽杖を購入し、そろそろと杖をつきつつ生活をしておりました。


数日後に歌舞伎座のお稽古場での2月『新・三国志』の稽古が始まったのですが、
その頃には、一応「念のため」に杖をついて歩いてはおりましたが、最初に比べると
随分と痛みも和らいでまいりまして、舞台に向けてホッとしていたのですが・・・。


博多に入ってから、舞台稽古を続けるうちに、痛みが強まって行きまして、
初日前に一度ホテル近くの病院を受診。
水を抜いてもらい、ヒアルロン酸を打ってもらい少し楽になって初日を迎えました。


しかし、初日が開きましてからは 正直申しまして 綱渡りの状態だったのです。

幸い、初日から親戚の観劇が続きました。
「○○さんの観劇日だから頑張ろう」、「久しぶりに博多の叔母が来るから頑張ろう」

そして、週末には家人が、翌日には姪っ子と甥っ子が見に来ることが
決まっておりましたので、それを目標に頑張ろう。

それを越えたら、休演日。そして あと一週間だから、先が見えるな。
頑張れそうかな・・・? と。

先が見えるとは申しながらも、実のところは目の前の一回一回が綱渡り。


舞台をご覧になられた方には、少しの違和感を感じられていた方も
居られたかもしれません

また、全く気にならない方も居られたかもしれません


今だから云える事なのですが、最後の週末は、杖なしでは全く一歩も歩けず、
ホテルから劇場の ほんの10分ほどの距離にもゆっくり休み休み
30分以上かかる状態でした。
少し歩くだけで、片足がパンパンに腫れ、熱を持ってました。

2日連続観劇の家人が11日の土曜日昼の部を見た時
「舞台の上でなんで歩けてるのか、何で走っているのかわからない。
 見ているほうが痛いわ、明日見られるかなあ、私」

と云う感想。


舞台上ではアドレナリンが出ていたのでしょうか?
舞台では何とか不格好にならない程度には 歩いておりました。
走らねばならないので、走れました。
立ち回っておりました。

立ち上がる時にも、きっかけを外すわけにはいかない、転ぶわけにはいかない

その一心で初日から舞台に立ち、舞台を勤め、自力で袖や花道に。
そして入った瞬間に、伝い歩く・・・。



12日の朝には、あまりの状態に心配した門松さんが、博多座の方に頼んでくれましたので
氷嚢を準備してくれ 氷で足を冷やしながら舞台に立ちました。

しかし、その日は なんとか舞台に立っておりましても いつ歩けなくなる瞬間が来るか、
転んでしまうか、膝をついてしまうか。

その前日までの舞台では そうならない様に そうならない様にと
思っておりましたが、この日の舞台は、いつそうなってもおかしくないと。
極限の状態にまでなっておりました。

その極限の状態の中、姪っ子と甥っ子の記念すべき初観劇。
「何とか見てもらいたい」
私を支えておりましたのは、気持ちだけだったのかもしれません

正直、段々と痛みが増し、その激痛で気を失いそうになって来ました。
「これは本当にやばいかも・・・?」と思う様になって来ました。

舞台を見ていた家人は、二度ほど「危ない!」と思ったみたいですが、
何とかかんとか舞台は終える事が出来ましたが、もう夜の部は。。。

階段を下りる事、花道を歩く事さえ怖くなってしまいました。
怖いと云うよりも、物理的に無理になっていたのだと思います。

昼夜の合間に猿之助さんの楽屋へ伺い
「申し訳ありません もう限界です。」と打ち明けました。
そして無念の休演になってしまい、今に至ります。


休演。
昨年はコロナでの無念の休演がありましたが、あの時は舞台自体が
休演になってしまいました。

私が休演しても、舞台が続いていたと云う訳ではありません。

個人的な休演は、おそらく30年か・・・40年ぶりの事だと思います。


今でこそ、体調不良だと「休演してください」というのが当たり前ですが、
以前は体調不良くらいでは 休むなんて考えられませんでした。

怪我でも、病気でも休むことは罪悪と云う気分で 何十年も役者を
して参りましたので、今回の休演は 本当に精神的にこたえました。


本当は・・・千穐楽だけでも、舞台に立たせて貰えないかと思っておりました。
休演する事に、舞台を離れる事に、どこか未練がありました。

猿之助さんが
「無理をして今後に影響があったらだめだから、休演して、東京へ帰りなさい
 そして、早く病院見つけなさい」
と云って頂いた事、その通りだと思う事にしました。


今ならわかりますが、たとえ博多に残っていたとしても、
食べるための買い物に行くのも大変、食料調達すら難しい状態でした。
千穐楽までいる事は、到底無理だったのだと、今は思います。
猿之助さんの言葉通りですね。


早く病院に行けたのも、手術が早く決まったのも、正しかったのだと
今なら思います。

また、私の状態を知りながら東京で仕事をしていた家人も、
胃が痛くて、しんどかったと。
舞台を見たら、もっとしんどくなったと。

日曜日の観劇は、お弁当半分も食べられなかったそうです。

あと一週間も、博多で状態が分からないまま 舞台を続けていると思ったら
私の神経の方がもたないかも知れない・・・と。

今は自宅で、二人三脚、「目の届くところに居て安心する」と云われてます(笑)

とりあえずは白内障の手術も無事に終え、次はひざの手術と覚悟も決められます。


大きな病院で出して頂いた詳しい診断の結果は 以前から診断されていた変形性膝関節症
それに加えて、骨の亀裂。
そして何よりも、膝骨壊死と云うものでした。

骨が壊死。
骨の細胞が死んでしまっていると云う事です。

レントゲンでは 診断する事ができない症状だそうです。
MRIの画像を見ますと、亀裂よりも明らかに、骨が白ではなく黒く写っておりました。

自分の中では、骨が一部欠けてしまったのかなとか、ちょっと変形したのかなとか
思っていたのですが・・・

よくこれで舞台に半分でも立っていたなと云うのが 正直な感想です。



ひと月経ってやっと胸の思いも書けるようになって来ました。
真っ暗な中で取り残されたように感じていたあの時を経て、
白内障の手術を終えまして、物理的にも周りの風景が明るく見えました。
ここ数日は、季節が変わっていると云う事に 気づく事ができました。


詳しいことはまた後日書かせて頂くかもしれませんが、今その手術に向けての日々です。

また舞台に戻れるように、前向きに行きたいと思います