先日亡くなられた坂東竹三郎さんは晩年は大阪の近鉄沿線にお住まいでしたが、

私が子供の頃、5~60年ほど前の話ですが まだ高津町に居りました時、
竹三郎さんは前名の坂東薪車のお名前で日本橋2丁目あたりにお住まいでした。

つまりご自宅もついご近所だったのです(笑)

その後四代目尾上菊次郎さんの養子となられ五代目竹三郎となられました。


実は私が高校生の時のボランティアのある会で 創作の「敦盛」と云う演目に
竹三郎さんにお願いして出て頂いた事がございました。

色んな演目の中のほんの10分くらいの物語ですが、人間国宝の山崎旭萃さんの
琵琶の演奏に乗り、十二単衣を着て女の姿をして落ちのびて行く敦盛とその乳母、
ですが三人の忍者姿の討手に囲まれ乳母は健闘むなしく斬られてしまいます。

女姿の敦盛も討たれるかと思っていたところ引き抜いて男に返り
忍者三人を倒すと云う歌舞伎的な絵巻でした。

ちなみに私が敦盛、乳母が竹三郎さんでした。

実はこれ父が頼まれたある団体の催しで、お客様がアメリカの芸術家の方たち。
日本と芸の交換祭をやりませんか?と持ち掛けられ父に白羽の矢が立ったのです。

良き時代でしたね(笑)

日本からは民謡や団体の日本舞踊などが演じられましたが、アメリカからは闘牛のマントの踊りや

ミュージカルなどの一部を上演、そして当時流行っていたピンキーとキラーズの

「恋の季節」などをアメリカの4人の少女グループが歌うと会場は大盛り上がりでした。


日本の演目はほとんど食われてしまいましたが、私と竹三郎さんの「敦盛」が
なんとか日本の面目を保ってくれたと主催者は大喜びでした(笑)

この創作を考えたのが父冠十郎でして親しくさせて頂いていた山崎先生にもお願いし 
竹三郎さんにもボランティアのご出演を御願いして共演させて頂いたのです。

父はもちろん忍者の一人で私に斬られて退場します(笑)
からみを忍者にしたのは当時アメリカのテレビで大の忍者ブームだったからです。

このからみの姿を見た外人さんたちは「ニンジャ、ニンジャ!」と大うけでした(笑)


今から思えばまだ素人の私を相手に山崎先生ともどもよく出演して下さったと思います。

私が歌舞伎に入る前にもこんな出来事がありました。 

今思いますと、よく頼んだなあと、若さゆえの勢いか・・・よく頼んだなあと、

冷や汗の出る思いです。

 

快く引き受けて下さった竹三郎さん には本当に感謝です。 

それ以来これまでず~っと昵懇にさせて頂いておりました。


私が成人して坂田藤十郎さんのお手伝いをさせて頂くようになった頃から
関西で竹三郎さんとはよくお仕事でご一緒させて頂きました。

竹三郎さん 幹部さんからわりといじられキャラで どこへ行かれても人気者でした(笑)

猿翁旦那のお芝居にももちろんよく出ておられましたから
毎年の旅行会でも楽しい思いをさせて頂きましたね。



1979年3月猿翁旦那の熱海での第5回旅行会がありました。

私は旅行会は初めてでしたが三波春夫さんの歌謡浪曲『大忠臣蔵』を使いまして、
竹三郎さんの毛利小平太、私の妻お袖で「小平太懺悔」を踊らせて頂きました(笑)

二人とも大衆演劇は大好き人間(笑)
くさくくさくやらせて貰い 猿翁旦那も喜んで下さいましたね(笑)


ある時期、竹三郎さんは菊五郎劇団へ加入された時がありましたが、
その時以外はほとんどの公演でご一緒させて頂いております。


先日も書かせて頂きましたが明治座での『男の花道』の加賀谷東蔵の代役は光栄でしたし、
『ヤマトタケル』の竹三郎さんの尾張の国造で私のその妻と
結構コンビもやらせて頂いておりますね(笑)

猿之助さんも大の竹三郎ファン(笑)
スーパー歌舞伎セカンドの『ワンピース』でも素敵なベラドンナでした。


なかでも2017年8月の『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帳』
竹三郎さんの関為三郎扮する赤姫 静御前は忘れられない演目となりました。

84歳での静御前でしたがまだまだお綺麗で本当に感心しました。

本公演でのご出演はもとより自主公演で話題作や昔の演目の復活と云う事にも
力を注いでおられ衰える事のないエネルギーを感じておりました。

まだまだご一緒させて頂けるものとばかり思っておりましたが・・・。

坂東竹三郎さん 色んな演目での思い出は尽きませんが私が秘匿していた思い出を
今回書かせて頂きました。

何もかもが楽しい、思い出すと顔がにやけてしまう思い出ばかりです。

また書かせて頂くかもしれませんが、今日はこのあたりで。

改めまして謹んでご冥福をお祈りいたします。