「記憶に残るお芝居」の第4回目は 歌舞伎ではありません。

いわゆるお芝居ですが とても印象的なものでした。


1989年(平成元年)6月22日~26日の5日間だけ 横浜アリーナで

上演されたスーパーオペラ『海光』です。

これは横浜市市制100周年、開港130周年を記念して製作された
オリジナルオペラで沢田研二さんのスサノオ 大地真央さんのクシナダ
これに右團次さん 弥十郎さんが歌舞伎から参加されました。

猿翁旦那が総演出にあたられ出演者は他に市民コーラス1000人
オーディションでのコロス250人。そしておもだかや一門。
私個人的には「嵐延夫」の名前での最後の公演でした。

この次の月、名前も「市川延夫」と改め おもだかや一門となりました。

先日の「黒手組の助六」に門弟として四郎五郎さんたちと出して頂いた事は
すでに書かせて頂きました。

『海光』の脚本は斎藤隣さん 作曲と音楽監督は後にスーパー歌舞伎でご一緒する
加藤和彦さんでした。


この時初めて加藤和彦さんとお会いして感動したのを覚えております。

何と云っても私の高校生時代、ラジオの深夜放送で「帰って来たヨッパライ」を
聞いた時の衝撃は忘れられません

その作曲者でありフォーク・クルセダーズの一員の加藤和彦さんは
私の中ではフォークソングの神様でした(笑)

もちろん沢田研二さんや大地真央さんと云った面々ともご一緒に仕事ができる
・・・嬉しかったですね、ミーハーなもので・・・(笑)

 

今でも、大地さんのCM「そこにアイはあるんか」と云うのを聞きますとこの海光を

思い出します。


公演自体は月末の5日間だけでしたが、4日からアリーナでのお稽古が始まり
およそ1ヶ月新横浜へ通っておりました。

 

稽古時間は朝11時から夜の9時まで・・・。

もっとも市民コーラスの方たちは時間が決められていてお昼の数時間だけ。

当時の新横浜の駅前は、まだまだ建物も少なく、ただの(ごめんなさい)新幹線停車駅。

ただただ横浜アリーナがそのでかさを誇っておりました。
今と違って本当に殺風景なところでしたよ(笑)

地元板橋からは三田で乗り換えて京急で横浜経由でJRで新横浜なのですが、
今ほど交通の便が良くなくて このルートで行くと1時間半くらい

通勤時間がかかってしまいます。
 

朝はまだいいのですが 夜へとへとになってから逆コースを帰るのはかなりくたびれました。

そこでなけなしのお金をはたいて 新横浜から「こだま」で東京まで帰る事もしょっちゅうで
交通費もかなりかかってしまいましたね(笑)

体力的にも財力的にも厳しいお稽古でした(笑)


「海光」のお話は、ある国に侵略者としてスサノオ(沢田研二さん)が海から侵略して参ります。

村長や長老たちは戦わずに従う事を提案しますが若いコトシロ(右團次さん)は
俄然戦うと挑みますが、あえなく戦死してしまい結局国は占領されてしまいます。

侵略者のスサノオと占い師のクシナダは恋関係となり国は穏やかになるかと思われましたが・・・。
 

と云ったストーリーで台詞がほとんど歌になっておりました。

マスゲームの様な戦いやアリーナのステージの広さいっぱいを使った
人海戦術の動きはとても斬新でしたね。

それにオペラの二期会の方々や沢田さん 大地さんに交じって右團次さんも
美声をご披露されておりました。

私のお役は民衆の一人でしたが、実は舞台稽古の時にセリの事故があり
おもだかやの一門の猿次郎さんとオーディション組数人が挟まれて
大ケガをしてしまいました。

急遽私が猿次郎さんの穴に入り 民衆の筆頭としてのお役になりました。
当時は一応一門ではありませんでしたので、役と云う役は付いていなかったのに

アクシデントで一門のお役が回って参りました。




猿翁旦那は1000人のコーラスの人たちにも歌っていない時は
カラーパネルを持ってもらいペンライトをそれに充てたり振ったりという演出を

されました。


この辺りはさすが旦那の演出と思わせましたね(笑)


スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』はすでに上演されておりましたが
この時の経験がのちの『オグリ』のマスゲーム的の舞踊や『世界陸上東京大会 開会式』の演出に
大きく影響されたと思います。


まさにスーパー歌舞伎に通じるスーパーオペラでした。

おそらく旦那の中ではこの時には「スーパー」と冠するのがマイブームだったのでしょうね(笑)

 

この舞台、ご覧になられた方はおられるでしょうか?
スーパーオペラ『海光』どこかで見られたらいいのですが。