「記憶に残るお芝居」の2回目は1989年(平成元年)7月歌舞伎座の
『黒手組曲輪達引(通称 黒手組の助六)』です。

この時の7月から私は関西籍を離れおもだかや一門となり市川延夫となりました。

市川延夫になったから何が変わった??

まあ、そんなに変わるものではありません

 

今までは、一門ではありませんでしたので、旦那の手伝いはありませんでしたが、

この時より、正式に弟子になりましたので、お手伝いにも加わりました。

これが一番変わった事と云えば変わった事ですね。



昼の部は『小栗栖の長兵衛』『二人三番叟』『独楽』とこの『黒手組曲輪達引』で
夜の部は『獨道中五十三驛』の再演でした。

一門となりまして私は『黒手組の助六』で段四郎さんの鳥居新左エ門率いる
門弟の一人のお役を頂きました。

あとは朝顔仙平に松本幸右衛門さん 門弟に中村四郎五郎さん 私の父冠十郎と ベテランの俳優さんの中に

名題下の猿十郎さんと私。

明らかにベテランの名題が演じる役でしたが、ここに入れて下さったのは、やはり一門に入った

お披露目とお祝いの意味もあったのでしょうか。

 

夜の部は、吹替ばかりで全く役がありませんでしたから(笑) 
ちょっとはっきりとした記憶にはないのですが、昔作成しました自分の出演記録には、

全て吹替で本役の記録がありませんでした(笑)

歌舞伎データベースにも名前がありませんので、吹替とか黒衣ばかりだったのでしょう。


『助六』と同様にお芝居の中で猿翁旦那の股くぐりがあるのですが、この股くぐりは

各役者がそれぞれの発想でお客様に楽しんで頂けるように考えます。

私が股をくぐる時は、当時はやっていた「股くぐり みんなでくぐれば怖くない。」
と台詞を云ってくぐっておりました。

驚きましたのは中村四郎五郎さん

初日の日、四郎五郎さんは猿翁旦那の「また~くぐれ~」と云われますと、
剣道の稽古道具が入っている袋から おもむろに黄色いヘルメットと横断中の黄色い旗、
そして笛を取り出し

「現在は交通安全週間 横断歩道を渡る時は 車に注意して渡りましょう。」

と云いながら股をくぐられました。


私はすぐ後ろで見ておりまして、その発想に唖然としましたよ(笑)

舞台稽古までは確か違う事をされておりました。

どこからそれを持ってきた??と(笑)

 

あとから「どこからその発想が?」・・・と 伺いましたらわざわざ築地警察に行かれ

「歌舞伎座のこういう演目で ある事をやらせて頂きたいのですが、

何か良いアイデアはありませんでしょうか?」
と聞かれたそうです。

そしたら警察が

「それはありがとうございます。では交通安全週間ですので、
これを使って舞台上から注意を促して頂く事をお願いできないでしょうか?」と
ヘルメットと旗と笛を貸して下さったのだそうです(笑)

本物か!!(笑)

私は股くぐりのその発想よりも 警察まで行かれてアイデアを探される
四郎五郎さんの舞台にかける意気込みに驚きました。

そして舞台に臨む姿勢を教えて頂きました。

私は、後にも先にもこの門弟役はこの時だけでしたので、股くぐりも一度きり。

もし、次の機会があったとしたら、一体どんな事をしたでしょうね。

 

四郎五郎さんだけではなくこの時、源左衛門(当時助五郎さん)さんも
夜の部の『獨道中五十三驛』ではお二人で弥次喜多を勤めておられました。

初演からの持ち役でこなされてました。

このお二人のだんまりや立ち回りの自然な動き、出しゃばらない演技 
そしてそれなりに目立つお芝居には 中村屋さんのご一門はすごいなあ~、
と感心させられてしまいました。

私も巡業公演で喜猿さんと共に『獨道中五十三驛』では弥次喜多を勤めさせて頂きましたが
このお二人の域に入れたかどうか・・・?

もうお二人とも亡くなられて久しいですが、私の記憶にはこの時の『黒手組の助六』の
四郎五郎さんの発想とお芝居が今でも目に残っております。
 

その時の四郎五郎さんはまだ50代の後半。

私はとっくに当時のお年を越えてしまいました。なんだか不思議です(笑)