私が初めて歌舞伎に携わったのは1963年10月梅田コマ劇場での、
コマ歌舞伎『浪花の恋の物語』でした。

これは『恋飛脚大和往来 封印切』を描いた梅川忠兵衛の物語で
坂田藤十郎さんの亀屋忠兵衛 有馬稲子さんの梅川で私は亀屋の丁稚長吉でした。

私、11歳の秋、58年前ですね(笑)

 


これがご縁で1973年1月20歳の時、大阪新歌舞伎座での『寿新春花形歌舞伎』にて
坂田藤十郎さんの裏のお手伝いをさせて頂き、それが歌舞伎界に入るきっかけとなりました。

また次の年の1月の『寿新春花形歌舞伎』の公演では藤十郎(扇雀時代)さんと
猿翁旦那(三代目猿之助)と宗十郎(訥升時代)さんの三枚看板でした。

この時に藤十郎さんの『土屋主税』が出ており 宗十郎さんが大高源吾でした。
宗十郎さんの大高源吾がなんとも格好よく 憧れました(笑)

 

猿翁旦那もこの『土屋主税』のお役がお好きなようで 
たびたび勤められておられました。 

今月の歌舞伎座では中村隼人さんが『土屋主税』を勤められておりますが
楽屋でモニター越しに見ていると 藤十郎さんや猿翁旦那が思い出され
大詰の「討入り 花水橋」の支度をしながら懐かしく見ております。


忠臣蔵を題材としたお芝居には私も今まで数え切れないくらい
出演させて頂きました。

私たちは、毎回、毎日決まった時間に 支度をして討入りを経験しておりますが

本当の赤穂浪士(塩冶義士)は、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んで 

お家断絶となってから足掛け2年の艱難辛苦の浪人暮らしの末、

本所松坂町の吉良邸にてやっと仇討ちを果たしました。

これは四十七士のたった1回だけの快挙。

私は毎回「花水橋引き上げ」の舞台に立ちながら 「今初めて敵討ちを果たした」、
「これから泉岳寺(光明寺)にて一同とともに切腹する」、と云う気持ちで
勤めさせて頂いております。

 

高揚感、充実感、満足感、達成感

そして、もしかしたら どこかに小さくあるかも知れない 終わってしまったと云う空虚

そう云ったものは、初日から千穐楽まで何度勤めましても、現実ではたった一度。

演じる事に慣れてはいけません

 


短い場面ですが「花水橋』の幕が開いて舞台が明るくなると 
赤穂浪士(塩冶義士)の勢揃いでお客様のテンションが上がります(笑)

毎回 大きな拍手も頂き嬉しい場面ですね。

今日の写真はその花水橋の引き上げの際の私 矢間重太郎です。



討ち入りのこの扮装も今まで何回させて頂いたでしょうか?
この扮装も夜が更ける様に 今では姿もどんどん老けていきます(笑)

でも若作り まだ行けますでしょうか? 厳しいところですね(笑)