猿之助さんが本名で「初お目見得」として舞台に立たれのが1980年の7月歌舞伎座。
猿翁旦那が五段目の吉野山蔵王堂花矢倉まで通された『義経千本桜』の初演の時でした。

お役はもちろん安徳帝で猿之助さんは4歳でした。

 

私もこの時、名題下でありながら大抜擢を頂き 序幕の幕開きで宗十郎さんの
静御前と並んでいる黒の振袖の腰元弥生の大役を頂きました。

 

 

3年後の1983年7月歌舞伎座で猿之助さんは『御目見得太功記』の禿たよりで二代目亀治郎を襲名されました。
猿之助さんまだ7歳の時。


そして私が猿之助さんに初めて立ち回りでからんだのが、次の年の1984年10月『菊宴月白浪』

 

このお芝居は忠臣蔵後日譚としてのパロディで大石内蔵助が万一、討ち入りの時に
吉良上野介を討ち逃した場合の二番手隊として斧定九郎が控えていたと云う物語。

 

幸い大石内蔵助は討ち入りに成功して定九郎は汚名を着せられてしまいます。

そんなお話の中で定九郎の一子、芳松が猿之助(亀治郎時代)さん

殺された定九郎女房加古川(先代門之助さん)の霊力が芳松に宿り 私たち雲助三人が
芳松を殺そうとして逆に芳松にコテンパンに投げ飛ばさるというオチでした(笑)

 

子役の猿之助さんに絡んでいて見得のきり方などすでに
大器を思わせる動きで驚いた事を覚えております。

 

この時の後の場面で加古川が骨寄せの岩藤のように大川の花火の向こうを
宙乗りで横切っていく場面がございました。
その遠見の加古川の吹き替えも 8歳の猿之助さんが勤めておられましたね。


大詰めでは定九郎(猿翁さん)が敵の直助実は与五郎(歌六さん)を追いかけて
大凧にのって花道奥に入ります。

 

次の場面で上手花道上空からその大凧にのって専蔵寺大屋根の舞台を目指しますが 
途中で与五郎の術によって凧が破られるのです。 

 

定九郎が客席に落ちそうになった時 定九郎は番傘をパラシュート代わりに開いて
舞台に居りてくるというパフォーマンスもあり お客様の悲鳴とともに絶賛の拍手を浴びました。 
うまくできてましたね(笑)

 

 

 

余談ですがこの初演の時 段之さんはまだ入門したてで本名でした(笑)

この時から今まで 長い付き合いです。

 

そして あれから37年、まさか私が猿之助さん日蓮の父親役を勤めさせて頂くとは・・・(笑)

それも2度も。

 

 

この『菊宴月白浪』 先の宙乗りもそうですが、術によって舞台上でからみの刀が燃えたり
舞台奥に大花火の打ち上げもあったり けっこう娯楽色が強いのですが たった3回しか上演されておらず
1991年10月の再演を最後に上演が途絶えております。

 

猿之助四十八撰の中にも入っているのですが、御覧になられた方も少ないのではないでしょうか?

どこかでもう一度この演目が再演されるといいですね。