今日は5月19日、先代市川猿三郎さんのご命日です。
1996年(平成8年)の今日、88歳でお亡くなりになられました。

 

私の父、冠十郎の先輩でもあられ、おもだかやの生き字引としてのご存在でした。
亡くなられてからちょうど25年、もう4半世紀にもなるのですね。

 


先代、猿三郎さんと私のご縁 不思議なものがございます。
猿翁旦那の陰のお仕事を(舞台の点検や 小道具の確認等々) 誰知られる事もなく 

コツコツと勤められて居られた姿が印象的でした。

そのためか、なぜか、父の名前より 猿三郎さんに惹かれました(笑)

 

 

お亡くなりになられましたのは、1996年の事ですが、今日の話は2005年から始まります。

 

2005年(平成17年)市川右團次(当時右近)さんと 喜多村緑郎(当時市川段治郎)さんの
ダブルキャストで上演されたニューバージョンの『ヤマトタケル』
私は「ヤイレポ」を勤めさせて頂きました。

 

当時はまだ猿三郎ではありませんでしたので、市川延夫の時代の話です。

 

ちょっときっかけは忘れてしまったのですが、その時なぜか珍しく自分の隈取をとる機会が

ありました。

 

おそらくこの頃、歌舞伎講座などをしておりまして、お客様の前でデモンストレーション的に

隈取をとったりすることが多くありました。

その関係で、一度正式に自分の隈取をとろうと思ったのかも知れません。

普通は自分の物は そうそう持ちませんが、たまたま思い立ったのです。

 

 

ヤイレポの隈取を取ったその数日後の事です。

詳しく書きますと、5月23日、電話で この年の俳優協会賞の大賞を
このヤイレポ以下5役の功績で受賞させて頂く事になったと云う連絡を受けました。

 

実は私はおおよそ こう云った賞と云うものに縁がなく、ほとんど頂いた事が
ありませんでした。

それを、ほぼ初めてでその時頂ける可能性のある中で一番いい賞を頂けましたのは、
本当に驚きでした。


ちなみに、こちらの様子日本俳優協会のホームページで今でも見られますので、
若い若い(笑)私を見たいと思われる方は、こちらまで(笑)

 


その3年後、猿翁旦那のお許しを得て2008年に猿三郎のお名前を二代目として
継がせて頂く事となり 2月にブログ『猿三郎二輪草紙』を起ち上げました。

それ以降の話は おそらくみな様もこのブログを遡って頂けましたら、
お分かりになると思います。


3月新橋演舞場、4月博多座、5月松竹座、6月名古屋中日劇場で 
二代目市川猿三郎の襲名披露狂言として 勤めさせて頂いたのが
『ヤマトタケル』のヤイレポでした。


市川延夫で4ヶ月 二代目猿三郎で4ヶ月 通算で8ヶ月『ヤマトタケル』の
ヤイレポを勤めさせて頂いた事になります。


その2度目のヤイレポを演じる時、ふと3年前に取って我が家にもあります
隈取の額を見ました。

その時には全く意識なく、更には3年後に自分が「猿三郎」の名前で再び
ヤイレポのお役を勤める事など 想像もしておりませんでした。

 

 

猿三郎のお名前を頂く 3年前に取った隈取の額装。


2005年5月19日


そうなんです。
偶然、先代猿三郎さんのご命日にとったのが 今我が家にある隈取なんです。


おそらく自分のものとしては初めてとりましたものが、たまたまご命日だったこと、

それが、額装されまして我が家にありますこと。


そして、直後に頂きました俳優協会賞。

 

また、猿三郎の名を頂きまして、2度目のヤイレポを演じましたのが、
先代の13回忌にあたる年。


今思いますと、こじつけかも知れませんが、先代猿三郎さんから名前を頂き
今私が名乗っておりますのは 運命だったのかもしれないと思います。


それからもうさらに13年の月日が流れました。

 

2008年の折の写真です。

2005年の写真は 撮ったのか?撮っていないのか?

探しましたが、残念ながらありませんでした。

 

このヤイレポの衣裳は毛皮ですのでかなり重く さすがに今の私では
もうこのお役を勤める事は出来ませんが よい思い出となりました。

 

5月19日を迎えると そんな事を思い出します。