4月歌舞伎座の第3部は『桜姫東文章』の上の巻が上演されます。
この作者は云うまでもなく四代目鶴屋南北 江戸時代後期の人です。

 

前回の上演は2012年の新橋演舞場ですが、こちらは私はお休みを頂いておりましたので、

関係しておりません。

 

2004年に歌舞伎座で上演されました時は、昼夜合わせて5本の狂言のうち、
昼の2本目に上の巻、夜の1本目に下の巻と云う変則の形での上演でした。

 

私は上の巻「新清水の場」での僧入山、と下の巻での五人組築兵衛を勤めさせて頂きました。

 

この時の昼の部の最初の演目は『修禅寺物語』で 私は金窪兵衛行親を勤めさせて頂き 
このお役も入れてこの年の第11回俳優協会賞を受賞したのも嬉しい いい思い出でした(笑)

もう、17年も前の事だと思いますと。。。月日の経つ速さに驚きます。

 

 

さて、『桜姫』のお話ですが序幕からおどろどろしい展開で 江の島での修行僧清玄は、
同性の稚児白菊丸と心中を図り 清玄だけが生き残ってしまうと云う状況から物語が始まります。

例によって大南北の人間の因縁因果が絡むお話です(笑) 真骨頂ですね。


この稚児、白菊丸と清玄が身を投げたところが江の島の稚児が淵。

 

ここは『鎌倉物語』(中川喜雲)によると万治2年(1659年)鎌倉相承院の稚児白菊と
建長寺広徳院の自休蔵主が相次いで身を投げたとする場所だそうです。 

それゆえに稚児が淵と名付けられ後に南北がこのお話をモデルに『桜姫東文章』を
書いたとされています。


江の島に弁財天を建立したのは源頼朝でした。

打倒平家の旗を挙げましたが、石橋山の合戦で平家方に敗れ敗走の途中
梶原平三景時に見つかりましたが、なぜか梶原は見つけたと云わずに 頼朝を見逃してやります。 

その後梶原は頼朝の家来となるのですが・・・。

このあたりの事は歌舞伎 『梶原平三誉石切』にも詳しく説明されておりますね(笑)


お話を戻します、奈良時代より仏教の修行の場として江の島は盛んでしたが
平家を倒した頼朝はここに弁財天を建立します。 

 

ですが当時まだ鎌倉から東はそれほど人に知られておらず、鎌倉に近い江の島が
多くの人に知られる様になったのは家康が江戸に入ってからの事で
歌舞伎などが大いに影響しておりました。


弥次喜多ではありませんが 参詣と称して旅の途中でよったりしたりで、

その頃から江の島は人気観光場所となったそうです。

 

そんな江の島が舞台の作品は『桜姫東文章』の他にはもちろん
『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』

 

この題名で狂言が浮かんだ方はかなり通ですね(笑)

云うまでもなく『白浪五人男』の通し狂言での名称です。
浜松屋から後の場だけを上演する時は『弁天娘女男白浪』ですね。


弁天小僧菊之助、河竹黙阿弥が五代目尾上菊五郎の為に書き下ろした名作です。

もちろん尾上家の菊之助の名前と稲瀬川の場面のセリフや黒御簾の唄でも
江の島の名称が登場します。

こういった裏話を知る事も歌舞伎を面白くさせる隠し味です。

 


江の島は東京からは近いのですが、今はなかなか行くことが出来ません。
ですが、コロナ以前でも近いからいつでも行けると思って、
案外行っていないところの一つです(笑)

最後に行きましたのは2007年の8月。
それでも14年前ですから恐ろしいものですね(笑)


まだブログを開設する前ですので、写真も出していなかったと思います。
14年前の写真ですので、今も同じように見られるのかはわかりませんが、
歌舞伎に所縁の江の島観光。

しばし写真で お楽しみください。

 

江ノ電の江ノ島駅

 

ここが弁天小僧が居たとされる岩本院

ですが、現在は岩本楼という旅館になっております。この時は日帰りでしたが、
一度泊ってみたいものです。

 

そして弁天小僧の守り神 江の島の弁財天

 

ここが、『桜姫東文章』の序幕

清玄と白菊丸が心中を図る処の稚児が淵

ここに身を投げたら、ちょっと助からないかも。。。と思う様な白波でした。

 

 

所縁の深い音羽屋のお二人の手形も・・・(笑)

 

菊之助さんが植えたしだれ梅もありました。

写真は・・・季節的に咲いておらず 梅かどうかわかりませんので、割愛(笑)

今は大きくなっているでしょうか?

 

もう少し暖かくなったら 宣言も解除された事ですし 江の島あたりも行ってみようかな~。

いやいや。。。その前に無事に歌舞伎座千穐楽ですね(笑)