昨日のブログで紹介しました1985年の公演地 西ドイツの西ベルリン

今日のブログは その西ベルリンでの休演日のお話。

 

ですが、この休演日のお話をする前に、ちょっと地理的な説明をさせて頂きます。

難しくなく書かせて頂くつもりですので、休演日のお話に入るまで少しお付き合いください。

 

 

この時代はまだドイツが、東西に分断されたベルリンの壁(1961年)で象徴される
東ドイツと西ドイツが存在しました。


東西に分かれたドイツですが、もともとの首都であったベルリンは東ドイツの中にありました。

当時の東ドイツの首都です。

そして、西ドイツの首都は ボンに置かれました。

 

なんとなく、昔々の地理の授業思い出しました?

私も、改めて調べて「ボン」という地名を思い出しました(笑)

ボンを西ドイツの首都にしたのは、敢えて小さい都市を首都とする事で、再統一の際に

ベルリンに首都を統一しやすくしたのだそうです。

 

分裂前はドイツの首都であった ベルリンは、地理的には東ドイツの中にありましたが、

そのベルリン自体も東西に分断されておりました。

 

と云うより西ベルリンは東ドイツの中に壁で囲われた島の様な都市だったのです。

西ベルリンの大きさはおよそ東京23区より少し小さいくらい、周囲を約155キロの壁により囲われて

分断された地だったのです。

 

その地で公演が行われました。

西ドイツのデュッセルドルフ公演の後に、オーストリアのウィーン、そして西ドイツの西ベルリン。

なんだかおかしな行程のような気が致しますが、当時の西ベルリン公演と云うのは、

ちょっと特殊なものだったのです。


壁で囲われた西ベルリンは自由で、その外の東ベルリンは陰の力で支配されていた
なんか暗い感じでした。


ベルリンの壁の西側には落書きがあり 東側には壁にすら近寄れない雰囲気が・・・。
当時の東ベルリンの建物の西側の窓は悉くつぶされるか 板などで蓋がされておりました。

逆に西側からは東ベルリンを覗けるポイントがありました。

 

 

公演時の映像ですから1985年です。みなここから東ドイツを見ておりました。
映像にもありますが、西側の壁は落書きでとても派手に彩られておりました。
 

ここは、この時代の観光地にもなっており 近くには壁をモチーフにした
色んなお土産屋のお店も・・・。

 

ベルリンの壁は二重になっており その間は数十メートルございました。

映像に出て来ました壁の中のソ連兵は地雷の確認をしている所・・・。


ず~っと壁で隔たれていて一部 川の所だけ壁がありません

しかし有刺鉄線が何重にも張りめぐらわされていて 機関銃が装備された監視塔があり 
警備の兵士が常に見張っておりました。


そしてそこのそばには、無数の十字架が・・・。

川を渡って来ようとして見つかり、銃撃された方たちのお墓でした。

日本では考えられないドイツの地でしたね。

ある意味、戦後の日本も南北で分けられる可能性もあったとの話も聞きました。
それはなんとか避けられたみたいですが 歴史上の出来事ですね。

 

 

バスでベルリンの象徴ともいえるブランデンブルグ門も西ベルリンからは見ました。

 

 

 
ブランデンブルグ門がちょうど二重の壁の中に入っております。

従ってこの時代では門をくぐる事は出来ませんでした。

 

近くにはレーニンの銅像がそびえるように建てられており
兵士が監視をして 大砲やソ連の戦車 T-34が威嚇のように置かれてありました。

私たちの知らなかったドイツの悲惨さを垣間見た思いでした。


 

 

私たちはベルリンで8日間の公演を致しましたが、ほぼ夜からの公演ですので、昼は自由。

当時のベルリンに行かれた事のある方は ご存知でしょうが、この東西ベルリンは、

行き来が出来ました。

 

ただし、西ベルリンの人が東ベルリンに行き来するのは自由ですが、逆は厳禁でした。

 

歌舞伎のツアーでは、東ベルリンへ各自が行くのは自由でした。

決して推奨はされておりませんでしたが、禁止はされておりませんでした。

ただし、行くなら自己責任で。十分な自己管理をして行って下さいと。

何かあっても 知りませんよ・・・と。

 

 

私は、おそらく一生に一度の西ベルリンなんだからと、旦那のお弟子さん一人と一緒に

行きました。勿論。

この時を逃したら 2度と東ドイツには行く事はないと思っておりましたので、行きました。

幸い、もう今はいませんが、一緒に行ったお弟子さんがそこそこ英語が出来ましたので、

意思の疎通はしてもらえましたので、1人で行くよりは安心でした。

 

 

西と東が行き来できる箇所はフリードリッヒ駅とチャーリー・チェックポイント
という検問所から入る2ヶ所だけでした。

この時は、チャーリーチェックポイントから、歩いて東ベルリンに入る事を選択。

パスポートを見せて、書類を貰って、書類を書いて・・・

 

と、ここで失敗談が(笑)

書類には、東ドイツマルク(当時は西ドイツマルクと東ドイツマルクは別物でした)を

いくら持っているかを書かされました。

 

この時、東ドイツの通貨を手に入れるには、本来でしたらこのチェックポイントで両替をします。

ですから持っていないで 0マルクが当たり前です。

 

ですが、西ドイツと東ドイツの経済状況(物価)は 大きく違いました。

西ドイツの銀行で両替した方が数倍お得だと聞いておりましたので、あらかじめ両替し

それを馬鹿正直に申告してしまったのです(笑)

 

どうやら、持っている事がおかしいという判断で、替えた東ドイツマルクはその場で没収。

改めて1対1の比率で再両替をする事になってしまいました。

 

まあ、持っていたのは日本円にしたら数千円なのですが・・・

先に西ベルリンで25マルク(約2000円位)を換えたのですが、渡されたのは100東ドイツマルク。

それをそのまま申告し、没収されてしまい、再び25マルクを、25東ドイツマルクに交換し、

無事?に東ベルリンに入りました。

 

実際にそんなルールがあったのか、単に巻き上げられただけなのかは、今となってはわかりません。

が、東ベルリンでは残念な事に本当に物が無く、結局食事をしたりするだけしか使わなかったので

最初のお金を持っていても使い様がなかったでしょうが。

 

東ベルリンは・・・行ったのはいいのですが、情報がなく、どこに何があるのかもよくわからず。

市庁舎らしきものを見たり、西側からは落書きだらけだったベルリンの壁が、東側からは真っ白

そのギャップを感じたくらい。

 

また、食事も普通のレストランで食べたのですが、シーンとした中で、ナイフとフォークの音だけがする中、

チラチラと見られ、静かに食事が続けられる・・・と云った異様な雰囲気でした。

 

東ベルリンは、綺麗でした。清潔でした。

でも、街自体が派手とか地味とかそう云ったものとは違った次元で、なんだか色のトーンが暗い。

そんな街でした。

 

滞在したのも、2時間もいなかったと思います。

 

2度とない経験だろうなと思いながら、東ベルリンを後にしました。

 

 

後から聞いたのですが、同じ日に別の2人組が列車で東ベルリンに行こうとしたそうです。

フリードリッヒの駅について、同じくチェックポイントに行こうと歩いている途中に

写真を撮ったらしいのです。

 

そうしたら、機関銃を持った兵士に囲まれ、カメラからフィルムを抜かれ、「帰れ」と。

「GoWest」と云われて、そのまま東ベルリンには入ることが出来ず、引き返さざるを得なかったとか。

 

そんな時代でした。

そんな時代に、西ベルリンに公演で行き、ベルリンの壁を見て、個人で東ベルリンに行った。

忘れられない思い出の一つです。