1985年(昭和60年)の海外公演。

 

☆公演地☆
5月4日~7日
 ベニス(イタリア)  ラ・フェニーチェ劇場
5月10日~14日
 ミラノ(イタリア)  リリコ劇場
5月17日~19日
 ボローニャ(イタリア)アレナデルソーレ劇場
5月21日~24日
 チューリッヒ(スイス)シャウスピルハウス(市立劇場)


《↓ここから》
6月1日~2日
 デュッセルドルフ(西ドイツ)シャウスピルハウス(市立劇場)
6月5日~9日
 ウィーン(オーストリア) ウィーン劇場
6月12日~18日
 西ベルリン(西ドイツ) フォルクスピューネ劇場
6月22日~23日
 アムステルダム(オランダ) 国際会議場ホール


前回のブログでは、スイスのチューリッヒと公演後のツーク湖での休日の思い出。
皆で飲んでいた映像には、福助さんや錦之助さん(信二郎さん)も映ってました。
隼人さんが生まれるよりもずっと前のお父様の映像です。

ちょうど錦之助さんが25~26歳くらいですから、今の隼人さんと同じくらいでしょうか。
うわ~!!私もですが、信二郎さんも 若かったんですね(笑)

 


さて、スイス以降の行程は、西ドイツでの公演の後、一度オーストリアに入り、
再び西ドイツに戻ってくるという行ってこいの公演でした。


西ドイツのデュッセルドルフに着いてすぐ、公演のスポンサーの方たちから
ご招待があり出演者やスタッフ全員がその会場に向かいました。

この時 折角全員スーツを持って来たんだから、この機会に全員スーツ!とのお達しがあったので
何とも異様な光景ですが・・・(笑)
まだまだこの時代の海外ですので、張り切って正装を持って来ているのですが、
如何せん、ラフな格好ですべて済んでおりましたので、私はここで初スーツでした。

 

お店は美味しいステーキハウスで 地元の関係者の方たちとも色々交流ができました(笑)

 


デュッセルドルフでは、日本人が多く住んでおられ 皆さんが集まるお店として、
日本館と云う所がありました。

 

ホテルニッコーの隣。多分、歌舞伎公演ツアーの中でも紹介されていたのだと思います。
劇場に日本食のお弁当を仕出ししてくれたり、お食事が出来たり。

 

今になって ちょっと調べてみますと、そもそもが岸元首相の肝いりで出来たという 

かなり有名なお店だったみたいですが、当時の私は そんなこと知る由もなく・・・

私たちが行った時には、二階で麻雀が出来たり、カラオケが出来たりもしました。


確かその日は、誰かが先に行って、麻雀をしているという事を聞いておりましたので、
後から段之さんと共に合流いたしました。

麻雀は定員に達しておりましたので、私たちはカラオケを・・・。
私は『月の法善寺横丁』を台詞付きで、段之さんは美空ひばりを唄ったでしょうか?

 

その他にも『無法松の一生(度胸千両入り)』や『刃傷松の廊下(台詞入り』

段之さんは『悲しい酒』や『お祭りマンボ』等々(笑)

 

店に居られた日本人の方に2人とも絶賛を受け、全部ご馳走になり、その後は別のお店を
何軒も何軒も連れて行って頂きましたのも思い出です(笑)

日本人の駐在員の方だったのでしょうか。

いい時代でした(笑)


デュッセルドルフには、5日ほど滞在していたと思いますが、3~4回行きました。
ほぼ毎日ですね(笑)

ちょうどこの間に33歳の誕生日を迎えたはずなのですが、全く記憶になし(笑)
誰も何もしてくれなかったのでしょう。
誕生日だったことすら、日程表を見て気が付いたくらいです。

 

そうそう、ホテルのレストランでみんなで朝食中 
段四郎さんが置き引きに遭いそうになったことがありました。

荷物を持って行かれそうになったのを、綾太夫さんが気づかれ
「段四郎さん カバン!」と叫ばれ 事なきを得ましたが・・・、

 

後々、皆が「よく気が付きましたね」と云いましたところ、
「レストランに入って来た時から、このレストランには似つかわしくない
雰囲気だなと見ていたからね。」

 

スーツは着ていましたが 顔つきからなんとなく 嫌な雰囲気のグループだな 
と 思われたみたいでした。

 

私たちの様な団体旅行は、当時はまだまだ警戒心も少なく、また団体故の
油断もたくさんあったと思います。

ここは海外だ、日本ではない、と 改めて実感した出来事でした。

 

 

3日間のデュッセルドルフの公演を終えて 次に向かったのはオーストリアの首都ウィーン

 

ここでは私たちはウィーン劇場に近い趣のある旧市街に滞在しておりました。

 

ウィーンのある劇場は以前、大火に遭い たくさんの死傷者を出したことがあったそうです。

その為に危険な事にはかなり敏感でした。 舞台緞帳前には火事に際しての鉄のシャッターが

降りて来る様になっております。

 

また舞台の上手下手 私たちで云う所謂 幕溜まりにはそれぞれ 警察と消防署の関係者が

2人づつ待機しているBOXがあり毎回、舞台を見て警備しておりました。

 

ですから、あえて花道外はお客さんを入れず 空席にしている状態。

制限と云いますか、色んな事で制約を受けているような状態でした。

 

今から考えますと、笑ってしまいそうなのですが、予めスタッフから立ち回りなどに際しては

「緊張して稽古するのではなく いつもやっている こんなのは余裕だ みたいな感じでやって下さい。」

と お達しがあったので 大梯子や屋根からの返り落ちなどの大立ち回りは ニコニコしながらやっていましたら、

「なんでこんな危険な事を そんなに笑いながらできるんだ!」と 逆に叱責されたり・・・(笑)

 

 

知盛の活躍します二幕 『渡海屋』の次の場面 『船矢倉』の篝火では、赤い豆球のチカチカが

「本物の火ではないか? 危険ではないのか?」・・・とか かなり慎重にお稽古を見ていました。

 

で、初日の幕が開きましたらなぜか、空席の筈の 花道外にお客さんがいて満員なのです。

みんな不思議がり 「なんであそこにお客さんが入っているの?」と聞きましたら、

「この芝居お面白いから・・・」と 消防署や警察の関係者や家族たちが 席が空いているからと

見に来ていたそうです(笑)

 

「なんやそれ!」 って みんなで大笑いしました。

 


そしてこの地に滞在しておられた音楽指揮者の小澤征爾さんが
この公演をわざわざ見に来られ 猿翁旦那の楽屋まで訪問された事がありました。

世界に共通する日本の芸術と云うものは遠い地に於いても
巡り合わせがあるものだなあ~と感じましたね。

 

で、またまたウィーンでの休日は、映画「第三の男」での有名な観覧車に
みんなで乗りに行きました。

 

 

この観覧車、当時は思ったより大きいなあ、凄いなあ、映画に出たアレやなあ 
と思っただけで、詳しく調べたりしなかったのですが、35年以上たった今、
改めてブログを書く際に調べました。

 

1897年に建設されたものだそうです。
一つの箱に定員20人。それくらいは乗ってましたね。
とにかく大きいなあと思っておりましたが、私たちが乗った時にはすでに高さの

世界最大は、4年前に抜かれていたそうです。

 

日本の、神戸ポートピアランドの観覧車に。
その後、同じく日本の姫路セントラルパークに。
更に、つくば万博の「テクノコスモス」に(笑)

・・・日本ですやん!地元ですやん!
知らなくてよかった。

 

あの乗った時の感動は 知らなくて正解でした(笑)

ちなみに現在の最大は、ラスベガスのハイローラーです。
ウィーンの観覧車の約3倍の高さ。
ゴンドラの定員も40人でしたっけ。

 

日本の2人きりや家族で乗る小さなゴンドラの観覧車とは、発想が違いますよね。
ともあれ、あの時に乗った観覧車は忘れる事はありません

 

なんか今日は 休日の話や映像ばかりですいません(笑)

 

次回の第3場はお芝居のお話になる・・・と思います(笑)