今日、新たに成人式を迎えられた方々、本当におめでとうございます。

昨年は晴れ着騒動もあり 心地よく成人式を迎えられなかった方も
多かったようですが、今年はお天気も良く 素晴らしい成人式を
お迎えになった事と存じます。

さて昨日のつづきからですが、『金門五三桐』の舞台ではこの
「大仏餅屋」の店内で何が行われていたか、舞台をご覧になった皆様は 
覚えておられますでしょうか?

(観劇前の方には 一部ネタバレかもしれませんので ご注意を)


店の床の下を「普請」をかこつけて 地下道を掘っているのです。

一体どこまで??


「桃山御殿」までなんです。


はて? 桃山御殿 って どこ???


イメージ的には 伏見城、今の伏見区のあたりかなと 思っていたのですが。


京都近辺の方は お分かりかと思いますが あったとされる大仏は七条、
私の思っていた伏見桃山は、京阪電車でも 数駅向こうですから 
めっちゃ遠い!

とても、気軽に地下道を掘れる距離ではありません。


どうもおかしいなあと 改めて「桃山御殿」を調べましたらこんなものが。

方広寺すぐ近くの「養源院」が 別名「桃山御殿」と呼ばれていたようです。
伏見城の遺構が使われているので この別名があるのでしょうね。


昨日の地図をもう一度、ご参照頂きたいのですが・・・。
養源院と云うところに、もう一つ印をつけてございます。

ここなら 確かに地下通路は掘ることは出来そうです。


ところが、ここでも問題が・・・
実際の歴史に合わせますと、養源院の作られた時期と 
石川五右衛門の生きていた時期は微妙にずれております。

さらに 寺自体が淀殿の発願ですので、豊臣に所縁はございますが、
浅井氏の菩提を弔うためのものですので、ここには秀吉はいない・・・?


わからなくなってしまいました(笑)


もう少し調べますと 方広寺には「大仏七不思議」
というものが 存在するとか?

まあ「七不思議」ですので、根拠のない「噂」程度のものなのですが・・・

その中に「石川五右衛門の井戸」というものがあり、
大仏のあたりから伏見城へと抜ける地下道があったとされ、
五右衛門はその井戸から伏見へ行き来していた、
との伝説があるそうです。


ちなみに 七不思議の中には「大仏餅の看板」というのも 
入っております。

俗説に大仏餅屋は、五右衛門の隠れ宿だったと云う説もございます。(笑)


もちろん、石川五右衛門自体が ほぼ創作の人物ですし『金門五三桐』は 
その人物をモデルにした大創作の物語ですので、歴史的にぴったりとは 
結びつかないのですが、もしかしたら 「大仏の七不思議」の話と、
近くにあった「伏見城の遺構をつかった桃山御殿」
そのあたりが ヒントになって「大仏餅屋」の場面が作られたのかなあ?

そんな想像を膨らませる結果になりました。

結局、思っていたような着地は出来なかったのですが 何となく 
よく行っている場所が、今立っている作品の 舞台になったところだなあ~
と思うと、また京都に行った時には ここにも足を運ぼう!
と思ってしまいます。

鶏が先か卵が先か? ではありませんが、俗説が本当らしくなり
本当が噂になり、だんだんかみ合わなくなって 
記録にずれが出て参ります。(笑)

でも、分からない事だからこそロマンが生まれ 色んな想像が生まれます。

今のように、SNSが発達してすべてが映像化され、記録に残されると 
物語を想像する楽しみもなくなりますよね。

なんか五右衛門の最後よりも、今の方が殺伐としたものを
感じてしまいますね。(笑)

せっかく大仏餅屋の謎解きのお話が、結局 なぞは謎のままで
申し訳ありませんでした。(笑)