『金門五三桐』

このお芝居の中で石川五右衛門の父 「此村大炊之助」は、
実は明国の高官で「宗蘇卿(そうそけい)」と云う人物。

文禄の役で朝鮮に渡海した秀吉(お芝居上では真柴久吉)への
復讐として日本の乗っ取りを企てると云う とてつもないお話。(笑)


ですが、この大望を久吉に見破られ、その望みを
明智(武智)光秀に育てられた我が子、石川五右衛門に託します。



お芝居の中では秀吉と五右衛門 かなり深い因縁がある訳です。


こう云ったお話ですが『金門五三桐』の金門とは宗蘇卿の居た明の国、
今の中国を表します。 

そして五三桐(ごさんのきり)とは、秀吉の家紋である事を意味しております。



ただ初演時は『金門五山桐』(三→山)という題名でしたが、
あまりにも長大なる物語が複雑で わかりにくく 
場面的に南禅寺山門の場だけが よく上演されるようになり 
それにちなんで『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』と云う題名が
通り名として長く使われるようになりました。


五山はもちろん 当時秀吉が居たとされる桃山御殿のある
「京都」にあてられた五山。
五山の送り火も 五山ですね。

それが後年 秀吉の家紋の五三桐が使われたようです。


年代と致しましては、豊臣秀吉が石川五右衛門に命を狙われる頃ですから
江戸時代にはなって居りません

安土桃山時代の終わりの頃でしょうか?


秀吉が現在の場所に大坂城を建築したのが1583年。

それ以前は石山(大坂)本願寺として、絶大なる力を持って居た
浄土真宗の本山であり、この当時は顕如上人がこの土地に居りました。


ところがこの大坂と云う土地に目を付けた織田信長と長い間対立して
結局、信長に追われる様に顕如上人はこの土地から逃れるのです。

しかしその信長も1582年に明智光秀に本能寺で討たれ
この大坂の土地を手に入れたのは豊臣秀吉でした。

1583年にここに巨大なる大坂城を建築したのです。


しかし豊臣秀吉の建てた大坂城は徳川家康との夏の陣の折、
全焼してしまい 土地そのものは変わりませんが
現在の大坂城は徳川家康が敷地内の別の所に建てた城です。

最近、掘り起しによって元の大坂城の石垣が出て来たそうです。




お芝居の中では、石川五右衛門は明智(武智)光秀に
育てられた事になって居ります。

ですから五右衛門は、父である宗蘇卿も、育ての親である明智光秀も
秀吉に命を奪われます。

そら、恨みますよね。


史実ではさらに自らも我が子も 秀吉に命を絶たれる事になります。



ですがそのすぐ後に豊臣秀吉さえ命を落とし、豊臣家と一緒に
大坂城ですら燃え尽きてしまう訳ですから・・・。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわの事は 夢のまた夢」の
秀吉の辞世の句が、儚く聞こえますね。



ですが、その因果応報、それに架空の話を加え さらに因果を絡めあって
今のこの物語があると思いますと、歴史と創作。
うまくできているものだなあと思います。