大阪松竹座『寿初春大歌舞伎』の一番最初の演目は、
忠臣蔵でお馴染みの「土屋主税」です。

お家の芸、玩辞楼十二曲のうちに数えられているだけに
中村扇雀さんが土屋主税を勤められて居られます。



お茶会(俳句会)を題材にした忠臣蔵もの。

赤穂浪士の「大高源吾」は「子葉」と云う雅号をもつ俳人でもあり、
実際、俳諧にも事績を残された事でも有名です。

勤められているのは片岡愛之助さん


「年の瀬や 水の流れと人の身も(は、の場合もあり)」と

大高源吾の行く末を案じた宝井其角の上の句に対し、

「明日待たるる その宝船」

と 下の句を返しましたのは 今さら説明するまでもなく 
あまりにも有名な逸話ですね。(笑)




この「土屋主税」のお芝居には 一つエピソードがございます。


もともとの作品としては「松浦の太鼓」として江戸時代末期に
書かれた脚本で 明治に入り、一部改作し 三代目中村歌六の為に
当てて書かれました。

その後、この「松浦の太鼓」は 歌六の長男の初代中村吉右衛門の
当たり役となり、こちらも 今に残る作品となっております。



それでは、どう「松浦の太鼓」と「土屋主税」という二つの作品が関わるのか。


吉良上野介が赤穂浪士に討たれたのは、浅草に近い本所松坂町ですが、
本来の松浦邸は向島に屋敷がありました。

この「松浦の太鼓」を見た初代中村鴈治郎が、この作品をやってみたい、
と意欲を示し、新たに書き換えまして「土屋主税」と云う作品になりました。


ですが、本所松坂町の吉良邸の隣に実際、屋敷を構えていたのは
この土屋主税でした。(笑)


あらすじも登場人物も似通った二つの話ですが、できた時期や
脚色が違っている 作品と云う事ですね。

ですが、よくある事なのですが、後から書かれた作品の方が、
より史実に近いと云う事になってしまったというわけです。


私は子供の頃、この「土屋主税」の屋敷と「松浦の太鼓」の屋敷は
両隣かな?と 思っていて大高源吾は、討ち入りが終わった後も
忙しい人だったんだな?と 思っておりました。(笑)


この「土屋主税」は、忠臣蔵もので舞台では雪が降っておりますので
やはり12月か、1月での上演が多いですね。

赤穂浪士ではなく 脇の人が主役となって居る珍しい作品で
忠臣蔵の中でも俳句の世界を扱った、風流な作品となって居ります。


二つの作品、「土屋主税」の方が 当時の関西の好みで派手な演出に
なって居りますので、せっかくですから機会があれば
是非見比べて見て下さいね。