12月歌舞伎座の『幸助餅』に於きまして、1幕で大黒屋幸助は
元は長堀の大店の主人であり 相撲の雷関を贔屓にしたがために
身代をつぶした旨が語られます。
元は長堀の大店の主人であり 相撲の雷関を贔屓にしたがために
身代をつぶした旨が語られます。
そして現在では畳屋町の裏長屋住まい。
2幕に置いて新町に近い所に店を構え「幸助餅」が小さいながらも
繁盛している様子がわかります。
繁盛している様子がわかります。
そしていずれは、元あった長堀にもう一度大きな店を構えると・・・。(笑)
長堀橋筋は現在 東急ハンズがある一等地。
東西両方の大きな道路が御堂筋と堺筋。
東西両方の大きな道路が御堂筋と堺筋。
畳屋町はその二つの道路に挟まれた小さな裏通りです。
この裏長屋の畳屋町、現在こそ町名が変わりましたが、
まだその面影を残す建物がその場所にたくさん残っております。(笑)
まだその面影を残す建物がその場所にたくさん残っております。(笑)
たとえば畳屋町○○ビルとか畳屋町会館とか・・・。(笑)
私が小学校の頃にはこの一帯の町名が
まだ残っておりました。
まだ残っておりました。
御堂筋から東に心斎橋筋、畳屋町 笠屋町 玉屋町 千年町
堺筋と並んでおりました。
堺筋と並んでおりました。
そして堺筋を越えると、私が高津町の前に住んでいた大和町、
さらにこの一帯は堺筋から鍛冶屋町 南綿屋町 竹屋町 問屋町
そして松屋町筋 瓦屋町と云いまして 職人さんたちが
多く住んでいた町だったのです。
さらにこの一帯は堺筋から鍛冶屋町 南綿屋町 竹屋町 問屋町
そして松屋町筋 瓦屋町と云いまして 職人さんたちが
多く住んでいた町だったのです。
昭和57年から町名がどんどん変更となり 平成元年、私がおもだかや一門となった時、大阪市の南区と東区が合体区となり中央区となりました。
これで現在の町名となり、このあたりの以前の名前はなくなりました。
でも瓦屋町や高津町、他の一部では小さく
まだこう云った町名が残っております。
まだこう云った町名が残っております。
私の小学校の頃の運動会では、町々に分かれこの町内会の
父兄の方たちの対抗の騎馬戦やリレーなどもまだありましたね。(笑)
『幸助餅』の私の町内の世話役、安吉の出の前の幸助の台詞
「わしの道楽ゆえ、住み慣れた店屋敷から夜逃げ同然
畳屋町の裏長屋へ越さねばならぬ惨めな有様・・・。」の
父兄の方たちの対抗の騎馬戦やリレーなどもまだありましたね。(笑)
「わしの道楽ゆえ、住み慣れた店屋敷から夜逃げ同然
畳屋町の裏長屋へ越さねばならぬ惨めな有様・・・。」の
台詞を毎日聞きながら あぁ あそこに裏長屋があったんだなぁ~と
場所を思い浮かべる安吉 猿三郎でした。(笑)
場所を思い浮かべる安吉 猿三郎でした。(笑)