歌舞伎座『十二月大歌舞伎』のひとつ目の演目「幸助餅」

この作品を書きました一堺漁人(いっかいぎょじん)さんは、
曾我廼家五郎さんと云う上方の喜劇役者さんのペンネーム。

大阪堺市の出身だそうです。(笑)



その前は実は、歌舞伎の名題下の役者さんだったのです。



若い頃、歌舞伎に見切りをつけて 博多の俄の笑いに触発され
曾我廼家十郎さんと曾我廼家兄弟劇一座と云う劇団を作りました。

曾我廼家の名前は曽我兄弟から捩ったそうです。(笑)



ただ後年、十郎さんとは仲たがいとなり 曾我廼家五郎劇団として
進めて行きますが、1948年11月に亡くなられました。

その後の1948年12月、この一座が松竹新喜劇としてスタートするのです。



そうです。

「幸助餅」はもともと松竹新喜劇のお芝居だったのです。



私も藤山寛美さんの大黒屋幸助、小島秀哉さんや高田次郎さんの雷五郎吉で
何回も見た記憶がございます。(笑)


この曾我廼家五郎(一堺漁人)さん なんと1000本を越える脚本を
書かれているそうです。

「幸助餅」の他「ヘチマの花」「葉桜」「張子の虎」など
私 ずいぶん見た事がございます。



松竹新喜劇の役者さんはみなさん 脚本家としても有名ですね。

アッとん婆さんで有名な曾我廼家十吾さんが、茂林寺文福(もりんじぶんぷく)

親バカ子バカの渋谷天外さんが、館直志(たてなおし)

藤山寛美さんも、何本かの脚本を書いておられます。


松竹新喜劇の本拠地は当時、大阪中座でしたので
大阪が舞台のお芝居が多く「幸助餅」もその一つ。(笑)

「幸助餅」喜劇のお芝居から歌舞伎座の舞台で上演されるほどの
歌舞伎になったと聞かれたら名題下当時の曾我廼家五郎さん 

天国で、どんな顔でご覧になって居るでしょうね。(笑) 


そんなことをご存知なられた上で、このお芝居をご覧になると
また違った感じ方が出来る…かもしれません(笑)