今月の『六月博多座大歌舞伎』 私 夜の部には出演しておりませんので
夜の部の演目での話題が少なく 申し訳ございません


仁左衛門さんの『俊寛』には ご一緒させて頂いた事がございませんが、
猿翁旦那や右團次さん 遡って十七代目勘三郎さんや富十郎さんの
『俊寛』には出演させて頂いた事が多々ございます。

もちろん 船頭や供侍が主ですが、2000年(平成12年)8月、
国立劇場での第8回右近の会では右團次さんの『俊寛』で
私は平判官康頼のお役をさせて頂いた事もございました。



子供の頃に初めて見ました『俊寛』は、十七代目勘三郎さんでしたね。

子供の頃故 イメージからどうしても老人と云う感じでしたが、
猿翁旦那の『俊寛』は やつれの陰はお化粧で施されて居られましたが、
いわゆる老人の皴ではなく どこかにエネルギッシュなものを感じました。

仁左衛門さんの『俊寛』も皴はどうも 書かれて居られないようです。

もちろんもう、年齢的には必要ないのかも知れませんが 
実は そうではないのです。(笑)



舞台上では仁左衛門さん まだまだお若いです。

歴史上の 本来の『俊寛』鹿ケ谷の山荘で清盛暗殺を企てた時の年齢は
なんと 30代だそうです。

決して老人ではありませんし 却ってクーデターを起こそうとまで
思った人物ですので、きっと同年代よりも ずっと エネルギッシュで
あっただろうと思われます。


ただ島流しと云う状況の中でのやつれ・・・。

お芝居(近松門左衛門の原作)では、丹波少将成経の恋人、千鳥の代わりに
島に残りますが、もちろん千鳥は文楽 歌舞伎での創作上の人物。

成経と康頼が望郷の念で千本の卒塔婆を海に流し、その中の1本が
広島県、安芸の宮島 厳島神社に流れ着いたと云う逸話は
あまりにも有名です。


俊寛はひとり、これを書かなかったそうです。

厳島神社へ参りました時に その碑がございました。


平清盛は高倉天皇の妻 自らの娘 徳子が身籠って(安徳天皇)いたために
この二人の念に討たれ 安産を祈願して大赦を行い 二人を赦免致しますが、
俊寛には生涯 ご赦免はなかったそうです。



私、仕事で海外へ行きました折や 現在の旅の仕事の最中、
やはりうちへ帰りたいと思う事がございますが、それは日が経てば
いつかは自宅へ帰れるもの。

全く比べ物になりません。



自らの意志ではなく太平洋戦争中に命令され 色んな島に送られた兵隊さんや、
俊寛のように 何もない島でうちに帰りたいと思っても それが叶わない事は 
どれだけ望郷の念に駆られるか 想像を絶するものがございますね。

皆さまも、色んな事を考えさせられる今月の『俊寛』の舞台だと思います。