さて昨日の続きからですが、平家一門の恨みを晴らさんと 
義経一行を討たんがために 夜陰に乗じて出陣して行った
知盛とその家来たち。

小舟数艘に分かれ 義経のいる元船に乗り移ろうと致しますが、
この時 義経一行は数倍の家来たちを従え すでに迎え撃つ支度を整え 
知盛が来るのを ジッと待っておりました。

そうとは知らず、義経たちが罠にはまったと思った知盛は 
逆に罠にはめられたことを この時に知るのでした。

「舟矢倉」に於いて 典侍の局と官女たちが嘆く場面がここです。


1987年(昭和62年)5月に1度だけ この『渡海屋』『舟矢倉』『大物浦』を
「ニューディレクション歌舞伎」として 全く新しい観点から上演致しました。


この時に『義経千本桜』では本来はない場面、知盛一行が小舟数艘に分かれて
花道から本舞台の元船めがけて 乗り移ろうとする場面がございました。

その瞬間 源氏の鎧武者たちが一斉に元船の上に姿を現し 
逆に小舟に 乗り移っての大立ち回り 平家の家来たちは総崩れとなり 
知盛(猿翁旦那)は 孤軍奮闘して戦いますが、多勢に無勢でどうする事も出来ず 
船の上にて 源氏の兵に囲まれ睨み合って幕となります。


「舟矢倉」では この合戦の様子を相模五郎(勘九郎さん)と
入江丹蔵(橋之助さん)が注進で安徳帝と典侍の局に知らせて参り 
今度も義経を討つことができずに 負け戦である事を悟ります。

そして安徳帝に入水する覚悟を伝えるのです。


しかし義経はその事も先刻承知、四天王を先に舟矢倉へ遣わし
安徳帝と典侍の局を 捉えるのでした。

そしていつもの場面 残バラ髪、血だらけの装束での「大物浦」へと
続く訳です。


この大物浦は大阪と神戸の間に、今でも阪神電車の駅名の
大物(だいもつ)として 残っている事も何回も書かせて頂きました。(笑)



船から飛び降り、この大物浦の浜辺まで源氏の兵と戦いながら流れ着いた知盛。

孤軍奮闘してきた知盛ですが ついに力尽きたところへ義経が姿を現します。


再度戦おうとする知盛に義経は、渡海屋銀平が知盛である事は
すでに承知していた旨を語るのです。

そして知盛の述懐。

平家の一門が悉く滅亡して行ったのは 父、平清盛が権勢を欲しいままにして
勝手に天皇を作った事に、天照大神が怒り その災いが一門に降りかかって来ての
天命であったと嘆きます。

そう! 昨日 安徳帝がお安と云う女の子に姿を変えて・・・
と書きましたのはここの事です。


歴史上では男子である安徳天皇が『義経千本桜』では、
女の子として描かれております。

女宮なのに平清盛が、男宮と偽って天皇の位に就かせた事が
物語の発端としてこの『義経千本桜』では描かれており
それがこの演目の主題と云ってよいかも知れません

と云うよりも 隠された裏テーマと云うわけでしょうか。


『義経千本桜』は、義経が主人公ではなく生き残った知盛 維盛 教経の
3人を描いて 改めて実は、平家の一門が滅んでいく様子を
描いたものなのです。


但しこれは、私の視点から見た感想ですので、そういうお話ではないと
思われる方ももちろん 多く居られる事でしょう。

その方たちにはお詫び申し上げます。

ですが私はこの『義経千本桜』をその様に捉えます。


最後に、もう一人の生き残った平教経(たいらののりつね)は、
川連法眼の館にて吉野蔵王堂の衆徒 横川覚範(よかわのかくはん)として 
義経の動向を探っておりました。

これも義経は先刻承知。源九郎狐の助けもあり 僧兵たちを追い払い、
安徳帝を成りは帝のままですが もう元の帝ではありません
この子を平教経に預けるのでした。

これが五段目「吉野蔵王堂 花矢倉」の場面。



歴史では安徳帝は関門海峡の壇ノ浦で入水して崩御するのですが、
実は日本全国 至る所に安徳帝のお墓がございます。

わずか6歳の天皇の崩御 あまりにも可哀想と云う気持ちが
伝説として残ったのでしょうね。


この五段目の場面を復活されたのは猿翁旦那でした。

僧兵と佐藤忠信の大立ち回りが 話題となり大喝采を得たのがもうすでに
30年も前ですか?

猿翁旦那がこの演目をもって、ヨーロッパ諸国の大都市のパリ ロンドン 
ベルリン ベニス ミラノ ボローニャ チューリッヒ ウィーン
アムステルダム 等々を巡りましたのが つい昨日の事のように思い出されます。


明日は、今回の松也さんの知盛 音羽屋型の「渡海屋 大物浦」と 
おもだかやの型と どこがどう違うか?を 少しご紹介いたしましょう。