昨日のブログ、歴史的に『義経千本桜』の元となった時代は
どんな時代だったのかを 後白河天皇(法皇)と云う人物を中心にして
簡単に見てまいりました。

ちょっとややこしい時代ですが、おもしろい時代でもあります。



お話を『義経千本桜』に戻します。(笑)

このお話がフィクションである事は 昨日申し上げた通りです。

フィクションなんです。それをまず念頭に置いてください。


さあここからが、ややこしいのですが そもそもの『義経千本桜』
お話の始まりは“「屋島の戦い」で平家がすでに滅んだところ”から始まります。


『義経千本桜』では歴史上での合戦 関門海峡の壇ノ浦の戦いは、
存在しません 

土偏と木偏の壇(檀)ノ浦

「吉野山道行」などで語られる檀ノ浦の合戦は、屋島の檀ノ浦の事です。


昨年の旅日記で、しまなみ海道から屋島に向かいました折に 
この事は ご説明致しましたね。(笑)

従いまして、屋島合戦で平家がすでに滅んだ、とされて居る事が
この物語の前提条件です。



『義経千本桜』序段で平家を討った義経に、後白河法皇から褒美の品として
「初音の鼓」を院の寵臣 左大将藤原朝方から手渡されます。

今や源氏方の大将である頼朝に、ではなくその弟の義経に、です。

実はこの鼓を打てと云う事は、頼朝を討てとの隠語で、
これは院宣である・・と、後白河法皇の思惑を伝えております。


ある時は、平家を討てと頼朝を使い 今度は義経に頼朝を討て!と
画策する後白河法皇。

困惑した義経は鼓を返上しようとしますが、もとより法皇の言葉には
逆らえません 


鼓を打たなければ、兄頼朝を討たなくてもよいと思案し 
仕方なく一旦は持ち帰ります。


このことを前提条件に致しますと、あの場面のあのセリフの意味が
更によくわかってまいります。


『四の切(四段目の切り狂言)』に於いて 佐藤忠信が本物かどうか?
その真偽を確かめるために 初音の鼓を静御前に託した時の義経の台詞。

「わが手で打たれぬ 鼓の妙音 しかと詮議 申しつけたぞ。」と

自らが鼓を打つと 頼朝を討つと云う事を引き受けた事になりますから・・。



しかし頼朝は 義経が自分の許しもなく 勝手に御所に赴いて
帝から褒美の品と官位を賜った事を知り 怒って討手の軍勢を
義経の居る京へ差し向けます。


義経は兄の軍勢と さらさら戦う気はありませんが この軍勢を
弁慶が勝手に迎え討って 大将の土佐坊を殺してしまったために
義経の放浪の旅が始まり ここからさらに、お話が
ややこしくなって参ります。(笑)


ちなみにこれは、あくまでも『義経千本桜』と云う物語の中での話ですが、
史実におきましても 同じく義経は頼朝に追われます。


その原因は 初音の鼓・・・ではなく、一つには官位を勝手にもらった事。

以前にも官位についてのブログを書いたと思いますが、その時にもらったのが
左衛門府の三等官 である左衛門少尉。

この三等官の事を 中世以降は「判官」と言い習わすことが多かったため、
9男であったという義経は「九郎判官」と呼ばれます。

今にも通じる「判官贔屓」ですね。

この頼朝の怒りをかった事を この狂言を書いた作者の三人は、
初音の鼓に置き換え うまい表現でこの『義経千本桜』と云う
作品を作り上げました。

明日はいよいよ、今月の目玉『渡海屋 大物浦』へとつづきます。