今日は先日訪れました、屋島の古戦場の事を書きたいと思います。

この時代の出来事、歴史的にも また歌舞伎に登場します
地名としても 私にとりましては大変馴染みがございます。

ですが、実際に合戦が起こりました地を 改めまして目にしますと、
今まで分かっていたように思っておりました事が 急に立体的に
なると云いますか、違ったとらえ方ができるようになりました。


今後、もし同じように屋島を訪れる事がございます方のために、
また私自身の感動の忘備録として 改めまして一つの記事を
書かせて頂きます


年代などの詳しい事は今回は 省略いたしまして、
義経の鵯越(ひよどりごえ)で有名な、兵庫県の一の谷の合戦。

ここで敗れた平家軍は、 四国の讃岐 屋島で兵を立て直しておりました。


一の谷の合戦から屋島の合戦までは およそ1年ほど経過しております。
これも 今回調べまして驚きました事のひとつ。

結構時間の経過があるものだったのですね。
もう少し連続したものだと思っておりました。


まだまだ、船や兵の数では 戦力的に圧倒的に優位な平家軍。

ここ屋島(の檀ノ浦)の海辺で源氏軍を待ち構えておりました。

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写真左上の舟隠しには、相当な数の船を隠し、浜辺で本陣を敷き、
当然 瀬戸内海より船で来ると思っていた源氏軍を 檀ノ浦の浜辺で
挟み撃ちにすべく 準備をしておりました。


しかし、案に反して義経は渡邊津(大阪淀川河口あたり)より、
5隻150騎ほどの兵を乗せ 船で暴風雨の中 淡路島の南を横切り 
徳島県小松島に上陸して 陸上を一路 屋島へ向かいます。

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分割の写真ですので、黄色の目安と書いてあります場所を参考にして下さい。

|(赤の縦棒あたりまでが当時の海岸線で その浜に平家の本陣)

黄色の←、矢印が義経の進軍。

平家軍は3000騎ほどの兵を要しておりましたが、
分散していたために 後ろから来た源氏軍をたった150騎とは思わず 
相当数の源氏軍が来たと思い 慌てて 迎え撃つはずの船に乗り
沖合に逃げ出します。


《思いぞ出る檀ノ浦の 海に兵船 平家の赤旗、

 陸(くが)に白旗 源氏の兵(つわもの)》


の『吉野山』の忠信の物語の唄はまさに ここの処です。


源氏の兵が少ないと平家が思った時にはあとの祭り。
船の上で義経軍と相対します。

この戦いの、次の日に一旦休戦となった平家が、女官と扇の的を乗せて
やって来て 那須与一の伝説となる訳です。

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その場所が先日 ブログでアップしました駒立石、1番のあたりでしょうか?


平家の武将 悪七兵衛景清と美尾谷十郎の錣引きの場所が、2番のあたり、
ここまでは海の中でした。


忠信の兄、佐藤嗣信が義経の身代わりとなって 平家の能登守教経の矢面に立って
討ち死にしたのが3番の場所あたりです。

(地図上のそれぞれの場所は おおまかな位置ですので、ご了承ください)

見にくいかも知れませんが もう一度、パノラマで屋島山上からの
檀ノ浦の地形をご覧下さると、位置関係がお分りになるかも知れません

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数日後、梶原景時以下、源氏の援軍がここ 檀ノ浦に到着して
源氏の兵は平家と対等となります。

その後 この戦いで再び敗れた平家軍は 今度は九州壇ノ浦を目指し 
船で逃走していくのでした。


今、現在この地に居りまして、上から眺めますと、
さすがに 「しま」であった「屋島」は 埋め立てなどによりまして、
現在は川に隔てられておりますが、「しま」ではありません。

ですが、おおよそこの地で於いて ある戦いの繰り広げられました
その「地」と云うものは 実感できます。

上から見て なるほど。


そして、上から見たその地を、実際にレンタサイクルで回りまして
今は川となって居ります処、その距離感、背後の山と山。

源平の時代にここで戦った人たち。
そんなものが 見えるような気が致しました。


百聞は一見に如かず。

その地に行きませんと、感じられないものも多数ございます。

私も今回 初めて屋島を訪れ『吉野山』の「忠信の物語」の経緯が
よく分かりました。

次回私がこの物語を舞台上で演じる事は 難しいかも知れませんが、
行った事で感じることは変わって来ると思います。


皆様も是非、機会がございましたら こうした「所縁の地」にも
足をお運びくださいませ。