昨日のブログの中に関東、関西と云う分類が出て参りました。
では、どう云った処で関東と関西とが分けられるのでしょうか?


実は関東と関西の認識には、時代的にかなり誤差があるそうです。
関西と云われる由縁、「関」の「西」ですね。

では、この関とは?

7世紀、律令制のころ、大雑把にいいますと 大化の改新や壬申の乱の
時代となりますか?(本当に大雑把です)

東海道に鈴鹿関、東山道に不破関、北陸道に愛発関の3つの関所がおかれました。
鈴鹿はお分かりですね、サーキットもございますあの辺り。
不破の関とは今で言います 関ヶ原のあたり。
愛発(あらち)は福井県にあったとされております。


これらは朝廷のあります飛鳥や平城京を守るための関所で、
当時はこの関より東を「東国」と呼んでおりました。
「関の東」つまりは 関東ですね。

でもこの時代には逆に、関西と云う概念はなかったそうです。

朝廷、つまり自分たちの居る処が中心で、ここを外敵から守るための
意識しかありませんから そこを関西とは呼んではいなかったみたいです。


歌舞伎でいえば『ヤマトタケル』の時代、相模あたりが「蝦夷」と呼ばれ 
『阿弖流為』の時代や『奥州安達ケ原』の時代は、「蝦夷」は東北辺りまで北上し、
江戸時代の「蝦夷」は、現在の北海道まで、移っておりました。

蝦夷=所謂 未開拓の場所と云う意味で・・・。

この様に、関東と云う概念も時代によってどんどん東進して参ります。


その昔は坂東と呼ばれたこのあたりが、関東と云う認識になったのは
鎌倉時代後半から戦国時代くらいにかけてでしょうか?

室町時代後半 太田道灌が関東平野に江戸城を築きました。
これは現在の皇居(江戸城跡)の位置ではなく、豊島あたりと云いますから
現在の巣鴨辺りでしょうか?

このあたり地元の名前のお城が点在していたそうです。
豊島城 板橋城 赤塚城 等々


その後 徳川家康が江戸に入り街道を整備して東海道は箱根の関所、
中仙道は碓井の関所、この関所から東を「関東」と表現し 
この江戸を取り巻く8つの国を「関八州」と定めました。

江戸時代には関西は、「上方」(かみがた)と呼ばれておりましたね。


上方と云うのは、江戸から見ると京・大坂は天皇の居られる地、
文化の中心地と云う事で 江戸の方が下、
それに対して「上方(かみがた)」なのです。


関西と云う呼び方は、江戸が東京となってのち、
大正末期から 昭和にかけて関西と呼ばれるようになったとかで 
その名称の歴史は 関東に比べて本当に浅いものです。

歴史の意識としてある「関西と云う場所」と 「関西と云う名称」とは、
必ずしも一致していないと云う事ですね。


さて、ところで皆様、一つ質問です。

(今打ち解けた場面で)「何弁を喋ってますか?」

私がこれを聞かれた時は 間違えなく「大阪弁」と答えます。
恐らく「関西弁」と云われるものもあるでしょうが 私は「大阪弁」

大阪生まれの家人は 京都も長かったので 京都交じりの大阪弁だそうです。

ですが、普段は東京に住んでおりますので「東京弁」を話しております。

え?標準語??

関西の人間には「なにが標準語やねん!」な気分がございます。
あくまでも「東京弁」なのです(笑)

関の西と東、今もまた 越すに越されぬ 目に見えない「関」が
あることでしょう。
西側からだけかもしれませんが・・・(笑)