『熊谷陣屋』の中で 弥陀六(みだろく)実ハ
「平弥平兵衛宗清」(たいらのやへいびょうえむねきよ)
と云う人物が登場致します。


今月では先日、日本芸術院賞を受賞された左團次さんが勤めて居られます。


この弥平兵衛宗清と云う人物、普通に歌舞伎をご覧になっておられる方でさえ、
イマイチ、よく分からない人物ではないでしょうか?(笑)

歴史的にもよく登場する人物なのですがその出生は
よく分かっておりません


平治の乱で平家に敗れた源義朝(みなもとのよしとも)と子の頼朝。

義朝は、逃げる途中 源氏を裏切った長田親子の館で討たれ
別の処で捕えられた13歳の頼朝は、討ち首になろうと致します。

その討ち首になるであろう頼朝を捕えた、平宗清が清盛の継母、
池禅尼(いけのぜんに)に願い 清盛に頼朝の命乞いを致します。

その結果 討ち首は取りやめられ伊豆の蛭が小島へ流されたのです。


また、源氏を根絶やしにしろ、と云う平清盛の命で義朝の側室
常盤御前の3人の子供(中の一人が義経)にまで、その討手がかかります。

ここまでが 『平家物語』などで語られております 源氏と平家にまつわるお話。



ここに 常磐津に「宗清」と云う名曲がございます。

関守であった平宗清の関へ 大和の国へ向かう 常盤御前一行が、
雪の中でさしかかり 宗清に正体を見破られてしまいます。

そして、討たれようとした時に子供たちが哀れだと思った 宗清は
平重盛からの制札「松を手折って 松を助く」と云う謎かけにならい 
常盤御前と子供たちを見逃してやります。


これは、かねてから常盤御前を自分のものにしたいと云う、
平清盛の意向を受け 「妾になれ」 との意思表示で、
「松(自分の操)を捨てて 松(子供たち)を助けよ」と云う
松にかけた小松殿(平重盛)の謎かけでした。


後に常盤御前は清盛のもとに出頭して 3人の子供たちの
命乞いをしております。


但しこの「宗清」の曲も常磐津での創作ですので、史実ではございません

おそらく「一枝を切らば 一指を切るべし」の『一谷嫩軍記』を
意識して書かれたものであろうと 思われております。


『熊谷陣屋』の中でも弥陀六 実ハ弥平兵衛宗清が
源義経に向かい こんな台詞がございます。

「あの時、こなたを見逃さずば今、平家の立て籠もる鉄拐が峰、
鵯越を攻め落とす大将は、あるまいもの・・。

まった池殿と云い合わせ 頼朝を助けずば 平家は今に
栄んものを・・・。この宗清が一生の不覚!」

と嘆きます。


ですから、弥陀六の台詞の中で 石屋の親父と偽って 
源氏に敗れた平家ご一門の方々の石塔を立て弔って居る、
と 申しております。

一の谷の東に御影と云う地名が今でもございます。
阪急・阪神電車の駅名はその名の通り 「御影」です。
御影石の有名な処ですね。(笑)
その近くには石屋川と云う川が流れております。

そして最後に義経は、熊谷次郎が助けた平敦盛を鎧櫃の中へ隠し
過去の宗清に助けられた例にならい 敦盛を助け 宗清に託すのです。

母の藤の方が 鎧櫃を覗き思わず名前を呼ぼうとする時に
「この中には何にもない!」と云って義経の志をうける訳です。

もちろん 敦盛が実は生きていて、助けたと云うのは歌舞伎独特の創作ですが、
熊谷の子、小次郎と敦盛がともに16歳。

後に熊谷次郎が出家した事にかけてのこの浄瑠璃の脚本は
本当にロマンを感じますね。


ちなみに私の子供の頃は、熊谷次郎が平敦盛を助けたのが
史実だと疑いもなく思っておりました。(笑)


実際に起こった事、後に物語として 書かれたもの。

そこから派生して更に歌舞伎などでの創作。
特に歌舞伎から入ってしまいますと、どれが創作の部分なのかが
わからなくなってしまいますね・・・

ブログを書く際には、出来るだけ 史実と物語、そして歌舞伎の創作を
区別して書きたいと思っておりますが・・・なかなか難しいものです。

混同していることがありましても どうか大目に見てください(笑)