本日のブログ 本当は、今月9日の日に書こうと思っておりました。

ですが、9日は『8月納涼歌舞伎』の初日。
初日には少しふさわしくないかなあ~?と 日をずらしました。


1週間前 今月の8月5日、立ち回りの天才 市川猿十郎さんの13回忌でした。

もうご家族との接触がないものですから、法要そのものが行われたかどうかは、
存じ上げませんが 私個人 心の中でその日 手を合わせておりました。 


ではなぜ9日にこだわるのか? 
12年前、猿十郎さんの死を知らされたのが、4日も経った後の9日だったからです。


このブログでも何回か 書かせて頂きました。
今日のブログは 長年読んで下さっております方にとりましては、
何度か読んだことのある 内容かもしれません

知っている話を 再度書いてしまっているかもしれません。
ですが、私にとりましては 大切な親友。もう一度、二度三度かも知れませんが
どうぞ お付き合いくださいませ。



話を戻します。 実際は8月5日に亡くなった 猿十郎さん。

一門全員 猿十郎さんの死を 知りませんでした。猿翁旦那でさえも・・・。

何か ご家族の思いがおありだったのでしょう。



私 この前の月 7月歌舞伎座公演で玉三郎さんと段治郎(現月乃助)さんの
『桜姫東文章』の通しに出演しておりました。 

当初の役は 僧、その二番目が 私のお役でございました。
ですが 筆頭として出演するはずだった猿十郎さんが急遽 病気休演となったため
順送りに筆頭の代役を勤めました。


猿十郎さん 総ざらいまではお役を勤めて居り 私 舞台稽古の日に
会社と猿翁旦那から急に 代役を仰せつかりました。

舞台稽古の日 猿十郎さんが私の楽屋を覗き
「ごめん 延夫ちゃん ちょっと体調悪いから 今月休むわ!迷惑かけてごめんね。」
と・・・私は、「無理しないで!9月になったらまた会おう!」と
軽い気持ちで別れたのが 永の別れとなってしまいました。


そして私 8月の後半は世田谷パブリックでの歌舞劇『オクニ』の公演でしたが、
前半はお休みでして 大阪に遊びに来ていた時に 猿四郎さんから電話を貰い 
猿十郎さんの行方がつかめない・・・と。


あいにく まだこの頃 今ほどは 携帯などの通信手段は発達しておりません。
ありましたが 今ほどには 誰もがそれで連絡を取り合っている 
と云う状態ではありませんでした。


私 猿十郎さんの携帯の電話番号も知らない中、連絡の取りようもなく、
数時間後 猿十郎さん やはり亡くなっていた・・・と
連絡を貰いました。

その時 茫然となって思わずホテルのシャワー・ルームに入り
シャワーと共に普段はそうそう流すことの無い涙を 流したことを覚えております。



猿十郎(この後 敬称略)とは3つ違いで、私より下でしたが
おもだか屋の一門では兄弟子にあたり、私のトンボの師匠でもありました。

彼のトンボは本当に天才的で、蹴り足 弾み足、左右 自由に使い分け
さらに片足 怪我をした時のためにと 弾み足から着地すると云う 離れ業も
持っておりました。

本来トンボは、蹴り足が先に回りますので、蹴り足から先に着地するのが
当たり前ですが、猿十郎は弾んでいるあとの足を先に回転させて 
蹴り足を追い越して 弾み足から着地すると云う 離れ業もできました。

彼のトンボ まったく音がしません

バク転 バク宙はお手の物で、『義経千本桜 蔵王堂』での
大屋根から燈籠への2段返り落ち 僧兵10人返り越しなどは 
伝説になって居りますね。

さらに『伊達の十役』の床下 荒獅子男之助とのネズミでは ぬいぐるみの役を超え
仁木弾正が術で変身した姿が 乗り移っておりました。

とにかくすごい役者だったのです。



こうやって私 今でこそ 猿十郎を褒めちぎっておりますが 
大声を張り上げての 喧嘩もよくやりました。(笑)


そして7月歌舞伎座公演の若手の時には 少ないお給料以外に頂ける
中日のご祝儀を持って 当時の銀座から六本木まで なけなしのお金で
二人で夜明けまで飲み明かした事も 懐かしい思い出です。 

次の日、と云うよりその日の朝ですね(笑) 

一睡もせず お酒の匂いプンプンさせて そのまま歌舞伎座の楽屋へ二人で入り
開演前のわずかな時間 楽屋でひと眠りしました。(笑)

とりあえず、劇場に来ていれば 寝過ごす事はありませんから・・・(笑)

それで立ち回りに出て トンボも返っていたのですから 若かったですね。



そんな彼が居なくなってもう12年ですか?

『ヤマトタケル』の大碓と小碓の双子の兄弟の立ち回りは 私と猿十郎とで
作りました。
今 それがそのままの型となり 猿之助さんの『ヤマトタケル』や
『ワンピース』に使われているのは 何ともうれしい足跡です。


彼と作ったものはたくさんございます。

久松と鬼門の鬼兵衛(獨道中五十三驛ではこれのパロディで長吉と江戸兵衛) 
伊達の十役のだんまりの、土手の道哲と仁木弾正、
双絵草紙忠臣蔵の小汐田又之丞と小林平八郎 等々 枚挙に暇がございません

お互い 猿翁旦那の吹き替えも 多く勤めさせて頂いたので、
旦那の着替えの間は、二人が旦那のお役で 立ち回りを勤めておりました。(笑)

猿十郎 その後は立師としても その手腕を発揮しておりましたね。



享年48歳。 これからと云う時の彼の死。 

この年代は歌舞伎役者にとって 本当に鬼門なのでしょうか?


 
それを年代を乗り換えての今の私、今後も彼の分まで 頑張りたいと思います。

今、私が「猿三郎」と云う名前になって 猿十郎が生きていて 並び立ったら
一体どんな役が出来たでしょう。

当時は 私よりも若くとも彼は先輩。
名前も私は「延夫」でした。

「猿三郎」と云う名で 一度でもいいから  猿十郎と共に舞台に立ちたかった。
今更の事ですが 思ってしまいますのは 仕方のない事でしょうか。

今の私の姿、見てくれてますか??
私は まだこちらで 頑張ってます、幸せにやってます。
猿三郎になって8年も経ちましたよ。

猿十郎が知らない後輩もたくさん入ってきて、猿十郎が作った立ち廻り
見事にこなしてますよ。

時々は、お前の事 こうして思い出す同輩も居りますよ(笑)



何度も書いておりますが、例え亡くなったとしても その人の話を伝えつぎ、
その人の話をしている人が 居る限りは その人は皆の中で 生き続ける。

私は同じ時代を過ごした 親友として 彼の功績は 語り続けたいと思います。
猿十郎を知らない方も 猿十郎と云う 役者がいたこと知ってほしいです。

改めて彼の、猿十郎のご冥福を祈ります。