ここ最近『渡海屋』『大物の浦』のお話ばかりでしたので、
今日は『木の実』『小金吾討死』『すし屋』のお話を・・。

ここの舞台は、大和の国 下市村。
今現在で言いますと、東大寺などのある奈良市内からは 電車で約一時間。


和歌山県を流れる紀ノ川が、奈良県に入ると吉野川と名前を変えます。
その本流と、さらに支流の分かれるあたりが、
近鉄吉野線 下市口と云う駅です。終点まで行きますと吉野山になります。

吉野線ではなく川の支流に沿って行きますと、今では下市町と名前の変えた 
当時の下市村となります。

吉野の金峯山寺から西へ直線で、およそ5kmくらいでしょうか?

距離的にはそれほど遠くありませんが そこは山の中 
そんなにすんなりと、通える道のりではありません(笑)


以前、こちらには バイクで行ったことがございます。

今でもここには《つるべすし弥助》と云う お店もあり、
私も一度 伺いましたが 中には歌舞伎の『すし屋』に
関連するものが たくさんありまして 猿翁旦那の権太の写真も
当時は飾られておりました。

勿論 上方のお鮨ですので、にぎりでも巻きではありません。
この形の お鮨も、やはり上方生まれの私は 嫌いではありません(笑) 

一度、吉野に行かれる機会がありましたら、こちらもおススメです。

以前は大阪市内のデパ地下にも お店があったらしいのですが、
現在では ないでしょうか?

今も そういった下市の地。


『義経千本桜』の当時、ここに大物の浦での知盛の死も知らず、
小松の内府平重盛の嫡子 三位中将平維盛は 壇ノ浦の合戦の後 
弥助ずしの弥左衛門宅に 匿われております。

その昔 弥左衛門は維盛の父 平重盛に仕えた経緯のある人。


維盛が壇ノ浦からどうやって ここを頼って来たかは、
お芝居上の台詞でも 「熊野で出会いし、」としか申しておりません

ま、要するにあまり深くは考えるな!と・・・(笑)
歌舞伎らしいと云えば 歌舞伎らしい!


その弥左衛門には兄のいがみの権太と 妹のお里と 
二人の子が居ります。


関西地方では、小さい男の子が 親の云う事を聞かないで、
やんちゃばかりしていると、「この子 ごんたやなぁ~」と
表現する事がございますが、このごんた!は、歌舞伎のこの
いがみの権太から来ております。 

お話が逸れました。(笑)


この権太、実は後に「すし屋」の場面で分かる事なのですが、
父、母が年老いて来たために いつまでも、い・が・ん・で なくて 

(いがみ・・と云うのは 上方言葉で まっすぐでない! 
 性根がいがんで(ゆがんで)る! ・・と 云う意味です。)

そろそろ心を入れ替えよう と 云う気になって居ります。


その最後の仕事に、人から金を巻き上げて(いいか?悪いか?は別として・・笑)
うちの居候 弥助(実は維盛)に 金を持たせ、落ち延びさせよう
と 云う魂胆を持っております。


これは親 弥左衛門が昔 平家に仕え 恩義があると云う事を 
陰ながら知った故、弥左衛門の手助けをして 親孝行をしようと
思って居たのです。



ですが、ここで悲劇が起こります。

それは弥助(維盛)の生存を知らされ 下市村まで探しに来た、
維盛の妻 若葉の内侍(わかばのないし)と 息子六代(ろくだい)の君を
警護している維盛の家来 主馬小金吾(しゅめのこきんご)から、
金を騙し取ってしまった事。

つまり権太は、助けようと思って居た弥助本人の、奥方と家来から
お金を取ってしまったのです。


これは、この時点では 権太はまだ知りません

さらに、小金吾は梶原の手下に囲まれ 二人を逃がすために
討ち死にをしてしまいます。 


この死骸に目を付けたのが、頼朝の家来 梶原景時に呼び出され 
維盛の首を打って 差し出せと云われたばかりの、帰りの弥左衛門。

勿論、弥左衛門は 自分の息子権太の企んでいることも、金をとったことも、
ましてや、この人物が、維盛に所縁のあるものとも 全く思っておりません。

弥左衛門としたら、進退窮まった時に たまたま そこに年恰好の似た
死体が転がっていたのです・・・

『小金吾討死』の幕が閉まった後 幕の中から弥左衛門の「えい!」
と 云う声 御聞き逃しの方も多いのではないでしょうか?

あれは、維盛の身代わりにこれ幸いと、小金吾の首を落とした時の掛け声です。


この首がこの次の場面『すし屋』へと続くわけです。 

明日はここからの続きを・・・(笑)