『義経千本桜』の説明に於いては 過去に何回も繰り返しており、
重複することになるかも知れませんが、あえてもう一度 
ご説明させて頂きます。


この作品 作られましたのはもちろん江戸時代ですが、特記すべきはその年代。

1746年~1748年。
延享3年『菅原伝授手習鑑』延享4年『義経千本桜』寛延元年『仮名手本忠臣蔵』と

わずか3年ほどの間に この今に残ります 歌舞伎の三大名作、
大傑作集は生まれました。


作者は竹田出雲 三好松落 並木千柳の3人合作で始めはもちろん 
人形浄瑠璃として、初演は大阪道頓堀の竹本座でした。

合作と云っても、その制作過程は 謎に包まれております。

三人が話し合いながら作品を作って行った?と云う訳ではなく 
大序から何段目はだれだれ、何段目から何段目はだれだれと 
おそらく 分担して 浄瑠璃を書いたのではないか?

と 後年の研究により 考えられました。


その一つのヒントが 物語の間に挟まる無意味な死!

『菅原伝授手習鑑』の「賀の祝」での桜丸の死
『義経千本桜』の「すし屋」いがみの権太の死
『仮名手本忠臣蔵』の「六段目」勘平の死

詳しい事は今は省きますが この三人の死は、後から紐解きますと 
死ななくてもよかった死です。

ですから、この場面の書いた作者は同じ人ではないか?と
云われております。


今回は『義経千本桜』に絞って ご説明いたしますね。

まず、この物語の主題は 源平の最後の戦い 壇ノ浦の合戦で
平家が滅亡した と 云われておりましたが 幼い安徳帝を守って
平家の3人の武将 《新中納言、平知盛》《三位中将 平維盛》
《能登守 平教経》が 実は生きていた!と云う処が大きなテーマです。

そして、時を見計らって源頼朝 義経を亡ぼそうと復讐の念に
燃えております。

ですが、本編では壇ノ浦以後 三者三様の考え方になり 
平維盛は下市村にて 町人として匿われているそのうちに、
段々その気は失せてきております。

もちろん人形浄瑠璃 歌舞伎でのお話ですから そこらあたりは随分と
脚色と云うより 捏造されております(笑)
 
知盛は渡海屋銀平として義経を待ち受け、教経は川連法眼館で
横川覚範と云う僧に化けて やはり義経の命を狙っております。

ただ、残念な事に「吉野山」「四の切」だけの場面ですと、
この覚範は登場いたしません。
従いしまして、このくだりは 佐藤忠信だけの物語の場面に なってしまいますが、
この後、「奥庭 蔵王堂」と続きますと このお話の最終がお分り頂けます。

少し余談になりました。

この後もおそらく隔日ですが、少しづつご説明させて頂きますね。


今に続く 歌舞伎の三大名作 その中に『義経千本桜』がございます。

そして、その『義経千本桜』と云う作品でも、

本来の全体を通しての お話
本来の通し狂言での『義経千本桜』
今月の 変則的な三役に焦点を置いての『義経千本桜』

それぞれ、重点を置いているところも違いますし、焦点も異なります。

役者の違い、切り取り方の違い、そんな楽しさも長く歌舞伎を見続けて頂ける
そんな縁(よすが)になると思います。

色んな配役での 色んな芝居を見てください。

同じ演目でも、また違ったものが 見られると思います。