昨日訪れました大阪、日本橋(にっぽんばし)の嵐徳三郎資料館。
谷口歯科センタービルの5階にございます。

2月『元禄港歌』の公演の時に 初演で糸栄を勤められた徳三郎さんに
お会いしたくなり、伺いましたが、残念ながら閉まっておりました。

その後の経緯は、昨日のブログで紹介致しました通りです。


嵐徳三郎さん 過去に何回かブログでも書かせて頂きましたが、
新しくご訪問いただいた方などは、徳三郎さんと云う役者さん自体を
ご存知ない方も居られるかも知れませんので 改めてご紹介させて頂きます。

徳三郎さんの写真を載せられればいいのですが、私が撮影した写真がないために、
番付やパネルの写真を使用する訳にも行かず アップする事ができません
なにとぞ ご了承くださいませ。

どうか、検索をしてみてくださいませ。


ちょっと長くなりますが・・・


徳三郎さんは 前名を「大谷ひとえ」と云われ 1956年(昭和31年)に
日本大学芸術学部演劇科卒業の学士俳優さんです。

「学士俳優」と云う言葉自体が あまり聞きなれないものだと思います。

大学在学中の歌舞伎(おそらく今でいうところのサークルや部活)の上演を 
当時の大谷竹次郎松竹社長がご覧になられ、
衰退していた上方歌舞伎にぜひ!との懇願で
卒業後 すぐに、上方歌舞伎界に入られました。

大谷性は、当時の社長からの特別待遇でした。
学士俳優としては全員で6名。関西歌舞伎に所属となり 全員が大谷性でした。

ですから、所謂 歌舞伎界においての、名題下を経験されておりません
(名題下・・・三階 つまり大部屋俳優の事)


特別待遇の俳優と云うことで すでにお役ばかりを勤めておられましたが、
3年後には正式に名題昇進と云う形で 名題待遇となりました。
(通常は10年以上のキャリアと師匠の推薦のもと、試験合格することにより
 名題昇進いたします。いかに特別待遇だったことかわかると思います)


関西では異例の抜擢の6名でしたが、これは関西だけの事。
もとより、しきたりの厳しい東京での歌舞伎界では この事実は一切通用せず、
6名がいわゆる「その地位にある歌舞伎俳優」として認められる事は
ありませんでした。

かろうじて、京都の顔見世興行で、東京の歌舞伎の方と顔を合わせても
同じ舞台に立たれる事はほとんどなく、出られたとしても お役らしいお役もなく
居並びの腰元などで いつもお役の出演は上方の演目だけ。


そのうち学士俳優さんたちも一人やめ 二人やめ 
何人かは、二代目鴈治郎さんの お弟子さんとなりましたが、
その方々も歌舞伎界の重圧に押しつぶされ 結局、大谷性で残ったのは
ひとえ(徳三郎)さんだけ 

大谷社長さんも亡くなられ、その後の関西歌舞伎の衰退は 
沈む夕日の如く早いものでした。


そんな中 大谷社長の遺言と云う形で、1971年(昭和46年)南座で
五代目片岡我當襲名に合わせて 七代目嵐徳三郎も襲名の運びとなりました。

襲名はされたものの 上方での歌舞伎公演も少なくなる中 
三代目猿之助(猿翁)旦那が 関西に来られた時などには 
よくご一緒するようになりました。


私はもとより 上方歌舞伎におりましたので、昔からよく存じておりましたし、
その後の猿之助一座との共演が多くございましたので 可愛がって頂きました。



1978年7月(昭和53年)7月の三越劇場での「冥途の飛脚」では
扇雀(現藤十郎)さんの忠兵衛に梅川は徳三郎さん

その梅川の朋輩に 本名時代の私が紅梅、片岡千次郎(現上村吉弥)さんの鳴渡瀬で
大役を勤めさせて頂きました。

徳三郎さん46歳。私は、弱冠26歳。私にも若い時もありました。(笑)
それらのパネルも飾ってございました。
  
などなど 当時の中座や新歌舞伎座での舞台の事を書きましたら
枚挙にいとまがございません


徳三郎さんはその他にも、独自の公演や蜷川先生のお芝居にはレギュラー的に
よく出演されておられます。 

先日の『元禄港歌』の初演の糸栄などもそのひとつ。

その他『近松心中物語』『マクベス』や『王女メディア』は、主役のメディア。
当時小劇場での演劇が盛んな時に渋谷のジャンジャンでは
『東海道四谷怪談』(浪宅のお岩)なども公演され 
色んな事に挑戦されておられました。


私が上方歌舞伎から東京籍になりましたのも まだ松竹座の出来る前で
関西では歌舞伎の公演が極端に少なくなったことなど いろいろな事情のため。


徳三郎さんはそれでも 上方におられ 孤軍奮闘されておられましたね。

いや現在でも秀太郎さんや 竹三郎さんが居られますから、
孤軍ではなかったかも知れませんが・・・。


そんな中 以前にも書かせて頂きましたが 思い出深い事と申しますと・・・

1984年(昭和59年)7月 
三代目市川猿之助特別公演「獨道中五十三驛」の時に 猿翁旦那の江戸兵衛に、
おはぎと云うお役で、猿翁旦那が 徳三郎さんを指名されました。 

徳三郎さんは

「延ちゃん(私の名前)私なあ 生涯絶対 歌舞伎座には出られへんと 思うてた。
 でも 今月初めて出してもろうて こんな嬉しいことはないねん 役者やってて
 本当によかったわあ。・・・・・」  

感無量で喜んでおられたお姿が 今でも目に耳に焼き付いております。

そしてこの時にこのお役で 松竹社長賞を受賞されました。

嵐徳三郎さんが後にも先にも 東京歌舞伎座の舞台に立たれたのは、
生涯でこの一度だけ。

どれだけ喜んでおられたか、皆様にも よくお分りの事だと思います。


その徳三郎さんが、2000年(平成12年)3月近松座巡業の初日、
山口県、ルネッサ長門の公演で体調を崩され 脳梗塞と診断され 
その後 舞台に復帰される事がなかったのは、返す返すも残念でした。


病気を苦に思われた事での最後は とても残念ですが、
ご贔屓のお客様によって こんなに立派な資料館が 今でも残っていることは、
とてもうれしい反面、昨日は徳三郎さんを振り返って 胸が熱くなりました。

写真は、その資料館の内部です。


イメージ 1


谷口先生のお許しで写真撮影OKとの事でしたので ご紹介させて頂きます。


イメージ 2


谷口先生は、徳三郎さんご存命当時は、後援会の会長を
されておられました。


徳三郎さんの膨大な舞台写真や パネル その時の番付 演劇界等、
私は小一時間ほど居りましたが、それでも全部見る事は叶いません

以前 私が伺った時よりも 部屋も広くなり資料も多くなっているような
気が致します


当時の化粧前 今にもそこに徳三郎さんが 座って居られるような感じです。


イメージ 3



イメージ 4



そしてその前にあります、かつらは最後の舞台となったルネッサ長門で
使っておられた「恋飛脚大和往来(封印切)」の おえんさんのかつら。

その時の、おえんさんの舞台写真とともに 展示されておりました。

この資料館は谷口先生によると 土日は、病院がお休みなので休館しておりますが
皆様いつでも ご自由にお越し下さい。との事です。


ご参考までに、場所は日本橋交差点 消防署の隣 谷口ビル5階(嵐徳三郎資料館)

ですが、そのまま5階に行かれるとシャッターが閉まっている時が多いです、
必ず4階の谷口歯科を訪ねて 「資料館を見せ下さい」と お伝えください。


自由に見学できますが お越しになる際 先にご連絡を頂ければ・・・との事です。

連絡先は 06-6644-0330 谷口歯科です。


先日の私のブログで 数名の方がここを訪れて下さったそうです。
ありがとうございました。

「この後も、一人でも多くの方に 嵐徳三郎さんと云う役者を 知って頂きたい。」
との先生のお言葉でした。

私も思い出のたくさんある 嵐徳三郎さん 享年66歳とはあまりに若すぎます。
でも、ここに行けば また徳三郎さんに会える気がいたします。
近いうちにまた 会いに行きたいと思います。


上方の色気を出すことのできる役者さんでした。
江戸の粋(いき)とはまた違う 上方の粋(すい)を感じることのできる
女形さんでした。


谷口先生と同じく 私もまた徳三郎さんの事をご存知ない方にも、
徳三郎さんと云う役者さんがいたことを 知って頂きたいと思いまして
思い出話を書かせて頂きました。

本日は長々と私の思い出語りに付き合って頂きました。ありがとうございます。