今日も物語の結末を書いてますので、大阪観劇の方は
ご注意いただきますようお願いいたします。


また、本文内では当時の風俗、当時の差別的な事項も触れてます。
お芝居の中の時代に於いての考え方は、今の世にはそぐわない事も
あるかと思います。
その点は、ご理解いただけます様お願いします。


『元禄港歌』の昨日の和吉が 歌春を殺害せしめた後 自らも命を絶ちますが、
その遺骸を弔う事を役人は許しません

「北山に投げ捨て、鳥獣の餌食とせい!」と 云い放ちます。


これは、罪を犯した和吉と それによって殺された妻 歌春を
人とは扱わないで 人ではない人と、同じ扱いにせよ!と云う意味ですが・・・。

ここで今の若い方は、意味が分からなくなるでしょうね。


江戸時代、人として扱ってもらえない暮らしをしていた人たちが、
事実おりました。

いえ、そういう暮らしをさせられていた、そうせざるを得なかった人々です。


今の様に役所もしっかりしておらず どこで生まれ育ったか?
出生届もありません 
よほどの名士でなければ 代々の存在 生活圏もわかりません

そう云った世の中、ある意味零れ落ちてしまった人々が
人別帳から外れていくのは 簡単な時代でした。

一旦 はずれた存在の人は 再び加えられる事はありません
落ちた人たちは、群れとなってある場所でしか 生きられないのです。

当時は不治の病とされた ある種の病人たちも入っておりました。

また何の罪もなく ただ異形だというだけで、差別を受け 
人並みの暮らしを送れない人たち。


今月の『元禄港歌』のお芝居にもそういった集団の人たちが登場します。
こういった生活を送って来た人たちは 今の私たちの生活からは
想像を絶します。

そんな苦しみの中にいる人たちに 救いの手を差し伸べる法師。

この集団の人たちは、この法師を心の拠所とする以外 
生きていく道がなかったのでしょうね。

ですが、この時代に於いて、人として扱ってもらえない人たちが 
和吉と歌春の葬儀を申し出ます。


「役人衆!この者たちも死すれば仏や! 遺骸の野辺送りは我らが勤める!
北山の丘で荼毘に付し 骨は人知れぬ処に埋めて 小さな塚を築き 
せめて この者たちの恨みを 鎮めてやらねばなりまへんやろ!」と 



重い言葉です。
実に重い言葉です。



本当に人でないのは、役人や私たちだったかも?

最後の最後 この法師の言葉は、見ている人たちの心に
グサリと突き刺さります。

今日の写真は、この悲田院法師の青山達三さんです。


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蜷川先生のお芝居で、シェークスピアの時は、神父を演じられ
今回は念仏信徒を率いる法師。

その神がかり的な存在感はとても大きく、蜷川劇団の大ベテランです。

楽屋でも、同じく映画好きと云う共通点がある事を、
最近知りまして、映画のお話などをしております。

考えさせられる生き方をしている人の多い今月の芝居。
悲田院法師のここに至るまでの人生もまた、気になります。