さあ 昨日の続きですが・・・。

1981年の京都顔見世が いかにすごかったか(いろいろな意味で。。。笑)

と云うことで 気がついたら 1日分のブログを書ききってしまいまして、
その後にこれを書いても どうも、内容的には・・・と云う気がいたしましたので、
昨日は あらかじめ準備していた内容を バッサリと 切って2日分にしてしまいました。


何と申しますか、前振りだけが勢いがあって、肝心の内容はどこにいったの?と云う内容で
大変失礼いたしました。(笑)


しかも、今朝、改めて読み返しまして「配役気になる方は 調べてください」と書いておきながら
文章の最後で「調べずにお待ちください」という、何とも矛盾しまくりの。。。(笑)


私も元にあった文章を 切った上で書き足したり、締めの言葉を作ったりとしているうちに
全く終始一貫しない文章になっておりました。

どなたかに ご指摘を受けるかなあと思いましたが なかったようで ちょっと一安心(笑)




さて、「芳流閣」ここからが 本番です。


その何とも豪華な京都顔見世 朝一番での演目が『南総里見八犬伝』芳流閣の場。
犬塚信乃は片岡秀太郎さん 犬飼現八は片岡我當さん

今のお二人を考えますと、え~!と云う感じですが、34年前。

秀太郎さんが ちょうど今の猿之助さんと同じくらいか 少し若いという頃のお話。

これのみの上演で、上演時間は25分くらいでしたでしょうか?



今回と同じように信乃によります 「どんたっぽ」と呼ばれる立ち回りと
早間(はやま)の立ち回り その後の現八との立ち回り。

私はまだ上方在籍で、「嵐延夫」として立ち回りの花四天に出て居りました。


実はこの前月、国立劇場に出演中の秀太郎さんは体の調子が思わしくなく
その病が治りきらないまま 京都顔見世の舞台のお稽古に入られました。

これは 現在でも同じなのですが、京都顔見世はいつも11月30日初日。
ですから、前の月が終わりましてから そのお稽古は 2日か3日ほどしかありません


この時の立師は、当時菊五郎劇団、伝説の立師と云えます 坂東八重之助さん


この方 師匠であろうが、御曹司であろうが、覚えが悪いと
容赦はしませんでした。 


もちろん私たち名題下の連中には、できなければ扇子で頭は叩かれる、
ビンタは飛ぶ! 今で云う体罰 パワーハラスメントもへったくれもなく、
みんな縮こまるくらいのお稽古でした。

今では考えられませんね(笑)


ですが、その当時は その当時なりに 必死に覚えましたし、できるようになりました。
そんな時代だったのですね。


誰でありましても そんな塩梅ですから、秀太郎さんにも 全く容赦がありませんでした。

もちろんさすがに、大幹部さんには体罰はありませんでしたが、
口で怒るだけでも かなりのパワハラ!
私たち怖いわ、居たたまれないわ、とてもとても そばに居られないほど・・・。


立回りの花四天は私たち上方勢の若手が数人 
後は当時バリバリの 菊五郎劇団の立ち回りの精鋭たち


もとより秀太郎さんは女形さんで、立ち回りもそれほどの得手ではなく
経験をお持ちではない上に さらに体調が思わしくなく 立ち回りの手順を
覚えられるだけでも 記憶力 体力と大変な作業でした。


当時、若鮎の会でお世話になっていた私、秀太郎さんのお弟子さんであった
秀寿(去年亡くなられました 松之亟)さんに 

「立回りの手順を書いて後で教えてちょうだい。」

と云われ、その場でメモを取り書かせてもらいました。

実はその時の私自身 書きとるものがほしかったのですが、
私、その時 手順を必死に覚えるので精一杯、紙と鉛筆を持ってくる・・・その 一瞬たりとも 
その場を離れることができませんした。

秀寿さんのメモ用紙とペンを 渡りに船とありがたく思えました。

 
それからあと、毎日秀太郎さんと他のお芝居のお稽古の間で立ち回りのお稽古。

僭越ながら その時点で、関西所属ではありましたが 猿翁旦那のお芝居に 数多く出て居り、
立ち回りの経験も、ある程度積んでおりました私が、秀太郎さんにお稽古をつけさせて頂きました。


 ・・・ちょっと 補足説明・・・
 
 上方では もともとそれほど立ち回りのある「お芝居」は ございませんので、
 立ち回りを ガッツリできる若手はおりませんでした。

 素質がないのではなく、あっても活かす場がないので、得手な人はいません
 関西で上方役者だけで、立ち回りの芝居は ほとんど上演されませんし、
 上演されます時は 菊五郎劇団など、立ち回りの得手な方が 主にされました。


 それを改善しようと致しましたのが ある意味上方歌舞伎塾なのです。
 塾の出身者は ある程度の立ち回りが出来るだけの力を持っておりますので、
 また、状況は変わってきております。

 

朝10時開演の9時半には舞台に立ち、みんなが来るまで、ひととおり
二人で立ち回りをおさらいする日が 中日過ぎまで続きました。


9時半には、衣裳かつらをつけての扮装をされて
舞台に来てのおさらいですから、秀太郎さんの楽屋入りは
朝8時か8時半頃でしたでしょうか?

舞台稽古 初日あたりは本当に精神的にお倒れにならないだろうか?
お体大丈夫だろうか? と 心配のし通しでした。


私は 本番では秀太郎さんにかかる 捕り手の一人にすぎません。

皆様が 今までご覧になられた立ち回りを思い出していただけましたら
恐らく想像はつくと思うのですが 立ち回りと云うのは 大勢がかかることもあれば
数人だけでかかることもございます。

一人がかり、二人がかり、四人がかり、大勢、その組み合わせが立ち回りなのです。

と云うことは いくら主役にかかる 立ち回りに出ているからと申しましても 
ずっと一緒にいるわけではなく、かかっていない時は 逆に袖で見る事すらできません。
屋根の下(裏)で待機しておりますと 全く 立ち回りを見ることも出来ません。


大変だったと思います、慣れない秀太郎さんも。
私も ドキドキしながら 見えない舞台を 見ている気分でした。


でも幸い 毎日の早朝練習の甲斐もあって 舞台では1日たりとも支障はなく 
秀太郎さんも日々 回復されながらの舞台であられ ほっとした次第です。  


30数年前の昔の事ですが、芳流閣の場面が出ると思い出される出来事でした。