何日か前のコメントで テレビの時代劇や歌舞伎などで 着られている裃(かみしも)。
いつもピンとした形になっていますが、何か入っているのですか?

と云うご質問を頂きました。 

よい機会ですので 裃について少しご説明を致します。


まず、基本的なことなのですが、歌舞伎の衣裳はもともとの江戸時代に着ていたものよりも
ずっと誇張された「衣裳」ですので、必ずしも あれがスタンダードなものではないと
思っていて下さいませ。



本格的な「裃」となりましたのは、江戸時代からで、それまでの戦国時代は
もう少し幅の狭い 裃とは呼ばずに「肩衣(かたぎぬ)」と申しておりました。

映画ですが『たそがれ清兵衛』などの作品では、肩衣と幅的には変わらない
本当に少しだけ横に張り出したようなものが 使われておりましたが、
恐らく、もともとは こんなものだったのでしょう。



それより以前 鎌倉から室町時代あたりは「直垂(ひたたれ)」の袖を取ったものが 
略儀的に着られておりました。


江戸時代の「裃」の用途としては、登城の際の正式装いとなりました。 
所謂 「スーツ着用」だった訳です。(笑)


これが特殊な たとえば映画などの『忠臣蔵』では 京の御門よりの勅使下向となりまと、
松の廊下のような「烏帽子、素襖大紋 長袴」の装いとなる訳です。
こっちは「モーニング」か「タキシード」、の正式な式服と云ったところでしょうか?(笑)


これは江戸城内で将軍に対して 斬りかかからない様に 斬りかかりにくい、
また斬ったとしても 逃げられない様な装いをさせたのです。

それでも浅野内匠頭のように 江戸城内での何回かの刃傷事件は 起こっております。


とりあえず、ある意味動きを制限するためもあり、大づくりなものを着用しておりましたので
とっても・・・邪魔だったのでしょう(笑)
 

ですから普段から 廊下や城内で歩く際に 人と人とが接触しない様に
往来の間隔にゆとりをもたらすために 裃を着用させたのです。

今の狭い道路や おうちの感覚の日本では逆に 考えられませんね(笑)


裃と裃が当たると 無礼者!と云う事になり 必然的に
なるべく 離れて歩く様になりました。

ですから、裃はピンと張っていなくてはなりません

さらにそれが元禄年間になりますと、武士もファッション的に
なるようになり、肩の線が一直線のものや あるいは丸みを帯びているものも
強調するような裃になりました。

ファッショナブルなものが出来てきたということです。

これもまた、傾奇者の仕業でしょうか?


そう云った経過で 江戸時代の裃に、襞をはっきりさせたり くじらを入れる事も
流行って来た訳です。(笑)

歌舞伎の衣装にも 昔はくじらの骨が 入っておりました。

ちょうどこういう風に・・・

イメージ 1


くじらの骨が入っていたところに ラインを引いてみました。

少しずれておりますが そこはお許しくださいませ。
(写真にラインを加工するのは なかなか難しくて・・・笑
 途切れて見えますが、一本のモノが左右に入っております)

再び私の裃姿がモデルで恐縮ですが、この黄色のライン えり下のところまで
今ではくじらの骨の代わりに 竹の棒が入っております。

くじら、数日前にコメント欄で簡単に回答させて頂きましたが、
入っている場所は、皆様のご想像のとおりだったでしょうか?

もしかしたら、上に何かが入っていると思われていた方も 多かったのではないでしょうか?
いわゆる肩のラインに入っているわけではなく、斜めの方に入っているのです。



余談ですが、『女暫』の巴御前が花道から登場する際の大素襖に入っている竹の棒も
くじらと呼ばれて居ります。 

これは、注意してみていただけましたら、この竹の棒(くじら)を見ることが出来ます。
もっとも、これをお客様に「注意してみていただかない」ために 私たちが立って歩いているのですが。



歌舞伎は、誇張に誇張を重ねた衣裳ですから、江戸時代の長袴は歌舞伎ほど長くはありませんし 
もちろん袖の大きさも もっと小さい筈です。

そして私の着ている織物での裃は もちろん江戸時代では存在しなかった筈です。

上と下の柄が違う場合は継裃(つぎかみしも)と呼び 『仮名手本忠臣蔵 九段目』の
大星由良之助が着ているのが それにあたります。

見慣れた裃ですが まだまだ調べてみる価値はありそうです。(笑)

今日は、とりあえずの内容ですが、また第二弾もあるかも・・・ないかも?(笑)