今日から申し訳ございませんが 私のこのブログで 2・3日 ある方の回想を書かせて頂きます。

この方は私、大変御世話になった方で 猿翁旦那にも大きな影響のあった方です。

そのお方の名前は『奈河彰輔』さん 

ですが、これは江戸時代の作者名前を模じられた、現代の方です。

『慙紅葉汗顔見勢(伊達の十役)』の初演時 またスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』の
初演時の番付(筋書・パンフレット)等をお持ちの方 さらに復活狂言の作品の番付をお持ちの方は 
題表示の上に 市川猿之助(猿翁旦那)演出の横に必ず 監修 あるいは 作 補綴とあるのを
ご確認頂けたらと思います。

先日の明治座公演のブログにおきまして 少し触れさせて頂いた「おもだか音頭」の
作詞家でもございます。

残念ながら、今年10月13日、肺炎のために83歳で亡くなられました。

ご本名はあえて今日は、ここでは明記致しません


と申しますのは、ご親族のご意向で 亡くなられた事もしばらく
伏せられておりました。

現在ではご葬儀を盛大にと云うよりは ご親族で密葬を済まされたあと、
御発表と云う事が多いみたいです。


私自身も かなりの縁のあった方でしたので なかなかこちらのブログには
書くことができませんでした。

奈河さんに限らず、お亡くなりになった事、私自身の中でも 咀嚼できないまま
宙ぶらりんになっている そんな方も多い事、ここ最近では特に感じます。

3回忌を迎えてなお、思い出を語り切ることのできない 勘三郎さんのように・・・


その奈河さん

私の知る限り 40年前(実質はもちろんその以前・・)からの、猿翁旦那のよき理解者であると共に 
復活狂言や新作公演、その企画まで なんとお一人で活躍された方でもあります。

なぜならば・・・。


私がおよそ40年前に歌舞伎界へ入門!(もちろん 子役時代を除いてですが・・)
その入門 いや 入社した時にも、大きな影響を下さった方です。

私が上方歌舞伎に・・、と 云うより関西松竹と云う会社の中へ入社?
入社と 云う云い方は 役者の場合 適切でないかも知れませんが・・。

なんとなく 入社と云う言葉をあえて使わせて頂きます。


その入社させて頂きました時、この方は当時の現役の松竹関西演劇部 
演劇制作室 室長で居られました。


すなわち、会社の重要なポストに居られた方が、歌舞伎の生き字引であり
復活するのに面白い狂言の台本も書き 猿翁旦那と打ち合わせをされ 
さらにその配役 プロデュースまでされ 私たちの出演料までも(笑)
差配されると云う立場に居られた スーパー演劇プロディューサー。

だったのです!!

当時 関西所属の私は、このすべてに関係している 関西所属の歌舞伎役者でした。
関西にしては、珍しく、関西歌舞伎と猿之助歌舞伎の双方にかかわりのあった私。

つまり、その両方を差配?して居られました 奈河さんとはまさに 双方での
かかわりがあったと云う事なのです。



40数年前の13代目仁左衛門旦那の8月 京都花形歌舞伎
(若手として我當旦那 秀太郎旦那 現仁左衛門旦那 玉三郎丈等出演の)
当時から、 実験的な色んな演目が 暑い京都で 熱く上演されておりました。


現在では松竹の演劇本部は東西が統一され、ある一部を除いては
制作が東京企画になりましたが、 この頃はまだまだ関西が元気な時
(とはいえ もちろん現在でも関西企画の演目はございますが、 
 この当時に比べては 今は数少なくなりました。)
 
この関西が思い切り元気な時に、私たちの勉強会『若鮎の会』を
最大限にバックアップして下さったのも この方です。

関西の時代、そして猿之助歌舞伎。
書きたいことは 山のようにございます。

書き始めますと、どこまで続くかわからず、今日はもう時間的にも遅い事ですし、
長くなりそうなので 今日はこの辺で 明日に続けます。
  

私の歌舞伎人生の大部分で関わらせて頂いた そんな奈河さんのお話。
暫しおつきあいくださいませ。